汐の病が全快した日から、三日後――
俺、汐、風子の三人は、町外れにある大病院までやってきていた。先日、診療所へ往診代を支払いに行ったとき、汐の主治医である医師に「一度、精密検査を受けたほうがいい」と勧められたためだ。
午前中は採血や心電図、エックス線撮影など、小さな子供には辛かったり退屈だったりする検査をいくつも受けたが、汐は大人しくしていた。さすがに渚の子だけあって、我慢強い。
「しかし、最近の病院ってのは進んでるんだな……。やけにシステマチックだし、隣町のとはえらい違いだ」
俺が感慨深く呟くと、風子が同意した。
「風子もそう思います。隣町の病院では、よく何時間も待たされたりしました」
「ああ、そう言えばお前はあそこに入院してたんだっけ」
「はい」
風子は頷いた後、屈み込んで汐に目線を合わせた。
「でも、良かったですね汐ちゃん。早く幼稚園に戻れそうで」
「うん。うれしい」
ニコニコと汐が答える。
さすが最新の病院だけあって、結果が出るのも早かった。汐の回復は順調で、この調子であれば二週間後といわず来週にでも幼稚園に通えるようになる、とのことだ。
「汐はよく我慢したな。採血とか痛かっただろ?」
尋ねると、汐は眉をひそめた。
「かぽってとりかえるとき、ちょっとだけ、いたかった」
「あの試験管みたいな奴か」
風子が説明してくれる。
「あれは真空採血管って言うんです。上手な看護師さんにやってもらうと、交換するときもほとんど力が加わらないから痛くないんですけど」
「汐のときの人はあんまり上手くなかったってことか。運が悪かったな。
それじゃ、汐がよく頑張ったご褒美として、今日の昼飯はどこかで美味いものを食っていくとするか」
「うんっ」
「岡崎さん、名案ですっ」
諸手を挙げて賛成する汐と風子。なんだか娘が二人できたような気分だ。
「そうだな……確かこの病院の中に料理屋があったよな。あそこなんかどうだ?」
さすがに大病院だけのことはある。だが、俺の提案に風子は首を横に振った。
「あのお店は駄目ですっ。変な料理ばっかりですから」
「変な料理?」
「はい。炭みたいに真っ黒になったアジを黒こげのパンで挟んだアジサンドとか、なんだか分からないものが浮いてる月菜汁とか、誰も注文したことがないトチメンボーとか、普通じゃないものだらけです」
「……そう言われると一度食べてみたい気もするな」
「やっぱり岡崎さんは変な人ですっ」
俺達が喋りながら廊下を歩いていると、前の方から歩いてきた看護師が俺に声をかけた。
「あの……」
「あ、すいません。騒がしかったっすか?」
「いえ、その……岡崎くんですよね」
名前を呼ばれて驚いた俺は、相手の顔をはっきりと見てようやく気付く。
「お前、藤林か……」
「はい。お久しぶりです」
柔らかく微笑む彼女は、かつての同級生、藤林椋だった。この病院のちょっと風変わりなナース服に身を包んでいるため、すぐには気付かなかったようだ。
「そうか、藤林は看護師になってたんだな。知らなかった」
そのとき、汐が呟いた。
「きょうせんせい……?」
見ると、汐は目を丸くして藤林を見つめていた。
「顔はよく似てるが、杏じゃないぞ。こいつは杏の双子の妹なんだ。名前は藤林椋、俺の高校時代の同級生だ」
汐と風子に紹介する。ところが、風子は藤林を指差してそれを否定した。
「風子、違うと思います」
「何が?」
「藤林じゃないです、名札」
「えっ」
藤林の方を向いて胸元に付けられた名札を見ると、そこには『柊』とあった。
「ああ、すまん。結婚してたんだな、藤林――じゃなくて、柊さんか」
俺が言い直すと、彼女はくすっと笑った。
「岡崎くんの呼びたいように呼んでくれて構いません」
「じゃあ、下の名前で呼んでいいか?」
「はい」
頷く椋。汐はきょとんとしたままだ。結婚して姓が変わるというのは、まだ汐の理解の外なのだろう。
椋は話を続ける。
「実は、高校を出てすぐに籍を入れました」
「全然知らなかった。教えてくれればよかったのに」
俺が文句を言うと、椋は苦笑した。
「ごめんなさい、ちょっと色々ごたごたしてたんです」
そして、椋はしゃがみ込んで汐に声をかける。
「あなたが汐ちゃんですね。初めまして。私は杏先生の妹で、柊椋と言います」
「こんにちは」
汐もぺこりと頭を下げた。
「実は、私の娘も汐ちゃんと同じ幼稚園に通ってるんですよ」
椋がそう言うと、汐は小首を傾げてから尋ねた。
「……こずえちゃんのおかあさん?」
「はい。汐ちゃんと会えなくて寂しいって、梢はいつも言ってます」
世間は狭いと言うべきか……。いや、考えてみれば杏の奴が幼稚園の先生をしているわけだから、椋がそこへ娘を通わせるのは別に不思議じゃない。縁というのは複雑に絡み合っているものなのだろう。
「おいしゃさんがいってくれた。げんきになったから、ようちえんにもいけるって」
「そうだったんですか。おめでとうございます、汐ちゃん。梢にも伝えておきますね」
「うん」
嬉しそうな笑顔の汐を優しげな瞳で見つめる椋。しばらく会わないうちに、椋は母親としての包容力を身につけたようだった。
「多分、来週にはまた通えるようになるだろうって。杏にもそう言っといてもらえるか?」
「はい。お姉ちゃんも喜びます」
俺が補足すると、椋も頷く。と、そこに隣からぽつりと声が聞こえた。
「なんだか風子、一人だけ蚊帳の外です」
風子が少し寂しそうな表情をしていた。
「おっと、悪かった」
「ごめんなさい。内輪の話ばかりで、失礼でしたね」
俺達二人が謝罪すると、風子もかぶりを振った。
「いえ、風子もちょっと大人げなかったですから」
と言うか、そもそも大人には見えないが。
「岡崎くん、こちらの方を紹介していただけますか?」
立ち上がった椋に促されて、俺はどう説明したらいいものか少し思案した。
「えーと、だな。こいつは伊吹風子と言って、渚の恩師の妹さんにあたる。俺と汐にとっても親しい友人だ」
そこに汐の声が割り込む。
「ふーこさんはいま、うちにおとまりしてる」
汐の爆弾発言――きっと渚譲りだ。
「えっ……あの、その……。れ、恋愛は人それぞれですし、岡崎くんの自由だと思いますけど……。す、少し年齢差に問題があるのではないかと……」
突然真っ赤になった椋は、しどろもどろな口調で俺を諭そうとする。
「ちょっと待て。お前は今、凄い勘違いをしてると思うぞ。俺と風子は深い関係ってわけじゃなく、単に風子が汐のことを好きで、ウチに居着いてるだけだ」
「そういう言い方だと、風子が厄介者みたいですっ。風子、ちゃんと汐ちゃんや岡崎さんのお世話をしてますっ」
俺の釈明に、風子が文句を付けた。
「岡崎くんのお世話……。いたいけな女の子にあんなことやこんなこと……えっ、そんなことまでっ?」
風子の台詞に、ますます暴走していく椋。
「……風子っ、お前が変なこと言うから誤解されてるだろうがっ」
「風子、変なことなんて言ってないです。正当な評価を求めてるだけです」
「そうかもしれんが、ちょっと俺に説明は任せてくれ、頼むから。
あー、ふじ……じゃなくて椋。そもそも風子は俺達と同い年だぞ。こんな見てくれだが、こいつはれっきとした大人だ」
俺としても『れっきとした』は言い過ぎだとは思うけれど、そう説明しておく。風子は少々不満顔だったが。
「あ……そ、そうですか。それなら何の問題もありませんね」
ようやく暴走が解け、椋は赤い顔のまま二度三度頷いた。
「えっと、伊吹さんでしたね。ごめんなさい、もっとお若いのかと勘違いしてしまいました」
「いえ。風子の艶やかな魅力は、時として男女を問わず人を惑わしてしまうようですから」
「そ、そうですね」
風子の根拠のない自信に、椋は苦笑しながらも同意する。
「さっきも言ったように、俺と風子はなんでもないんだからな。あんまり変に気を回すなって」
一応、釘を刺しておく。オッサンや早苗さん、公子さんはあっさりと風子が泊まっていくことを認めてしまったが、本来は椋の反応の方が当然なのだろう。
「……岡崎くんは相変わらずですね」
ようやく紅潮の引いた椋が、そう呟いた。
「ん? どういう意味だ?」
「いえ、こっちの話です」
俺の疑問は笑顔ではぐらかされる。まあ、大したことではないのだろう。
「実際、風子は俺達と同じ高校に通うはずだったんだ。だけど、入学してすぐに交通事故に遭って、最近までずっと入院していたらしい」
俺が説明すると、椋は「あっ」と小さく声を上げた。
「思い出しました。私、一年のときは伊吹さんと同じクラスだったんです」
やっぱり、人の縁というものは不思議なものだ。改めてそう思う。
「伊吹さんとはほとんど面識はありませんでしたけど、クラス全員で伊吹さんの心配をしてました。回復なさってたんですね、本当に良かったです」
「ああ、じゃあ風子と椋はクラスメイトってわけだ」
「はい。伊吹さんが事故に遭わなければ、お友達になっていたのかもしれませんね」
椋の言葉に、風子は少し俯いた。
「……でも、風子は人付き合いがあまり得意ではないですから、本当にお友達になれたかどうかは分かりません」
自覚はあるようだった。もしかしたら、風子のコンプレックスなのだろうか。
けれど、椋はそんな風子に笑いかける。
「実は、私もかなり引っ込み思案だったんです。だからきっと、気が合ったんじゃないかと思いますよ。
過去を取り戻すことはできませんけど、未来は違います。伊吹さん、良かったら私とお友達になって頂けますか?」
風子は顔を上げ、椋をじっと見つめた。
「……はい。風子、嬉しいです」
そして、そう答えてから風子は目尻を指で拭う。
風子は結局、あの学校へ通うことはできなかった。それがきっと風子には心残りだったのだろう。風子がどんな希望を学校生活に対して抱いていたのかは分からないけれど、それを今からやり直すことは可能なはすだ。
「ふーこさん……」
汐が心配そうに風子の手を取る。風子は汐の手を握り返し、微笑んだ。
「大丈夫です。風子、柊さんとお友達になれて喜んでいるんです」
「こずえちゃんのおかあさんとふーこさん、なかよし?」
「ええ。汐ちゃんと梢みたいに、今日から仲良しになったんですよ」
椋も汐に向かって頷く。
高校時代の椋は自分で言った通り引っ込み思案で、積極的に行動するということはなかったように思う。今の椋は、当時とは少し違って見えた。やはり母親となったことが彼女を成長させたのだろうか。
「しかし、椋が俺より先に結婚していたとはな。そうすると、出会いは高校時代なんだろ? 旦那さんはどんな人なんだ?」
俺が話題を戻すと、椋はふっと寂しげな微笑みを浮かべ、答えた。
「夫は、三年前に亡くなりました」
その言葉に、俺は息を飲んだ。俺を見つめる椋、それは俺と同じ悲しみを知る者の瞳だった。
「……そうか」
「はい。結婚前から勝平さん――夫が不治の病を患っていることは知っていましたけど、それでもやはり、とても辛いことでした」
それを聞いて、俺は恥ずかしくなる。
「お前はそれでも立派に立ち直ったんだな、椋。それに比べて、俺はずいぶん長いこと荒れていた。情けない話だよ」
しかし、俺の言葉に椋は首を横に振った。
「そんなことはないと思います。多分、私も岡崎くんと変わりません。後を追おうと考えたのも、一度や二度ではないですから」
「……」
抜け殻のようになって生きていた五年間、俺の心にも幾度となく同じ考えが浮かんだものだった。その甘美な誘惑を選ばなかった一番の理由は、渚が決してそれを望まないだろうからだ。
「両親やお姉ちゃん、そして娘の梢に支えられて今の私はあるんです。きっと、岡崎くんと同じだと思いますよ」
「ああ……そうだな」
いつだったかオッサンが、ひとりで生きていてもいいことなんてないと言っていたのを思い出す。誰かと繋がっているから、生きていると実感できるのだと。俺や椋が今ここにいるのは、その繋がりがあってこそなのだと改めて気付かされた。
「……岡崎さんも柊さんも、辛い経験を乗り越えてきました。だから風子、お二人には幸せになってほしいです」
風子は穏やかな表情で、俺達を見てそう言った。
「サンキュ。でも、風子だって長い入院生活を乗り越えてきたんだから、お前も幸せにならなきゃ駄目だろ」
俺は風子の頭に手を乗せる。出会ったときとは違って、風子はそれを避けようとはしなかった。
そんな俺達を微笑んで見ていた椋が、ふと我に返った。
「あ……いけない。あまりお話していると、お昼ご飯を食べる時間がなくなってしまいます」
「おっと、悪い悪い。そう言えば、椋は勤務中だったんだっけ」
「はい。何といっても体力勝負の仕事ですから、一食抜くわけにもいきません。バタバタしててすみませんけど、私はこれで失礼します。
汐ちゃん、伊吹さん、また時間のあるときにお話しましょうね」
「はい。さよならです」
「ばいばい」
椋は頭を下げると、俺達の元を去っていった。
昔と比べてずいぶん強くなったものだと思う。いや、それとも俺が知らなかっただけで、元々椋は内に強さを秘めていたのだろうか。
「柊さん、とても素敵な人です」
椋が去っていった方を見ながら、風子が呟いた。
「そうだな。以前よりもいい女になった」
「……風子、岡崎さんと柊さんはお似合いだと思います」
俺は風子の頭に乗せていた手を持ち上げて拳を作り、軽く小突いた。
「……! 痛いですっ。岡崎さん、女の子に手を上げるなんて最低ですっ」
「お前が変なことを言い出すからだろ。大体、そんなに強くは叩いてないぞ」
「岡崎さんと違って、風子は繊細だとご近所でも評判なんですっ。それに、変なことも言ってませんっ」
「どんなご近所だよ。そもそも俺と椋はだな、ただの……」
言いかけたところで、つんつんと袖が引かれる。見下ろすと、汐が口を尖らせていた。
「パパ、ふーこさんをいじめちゃだめ」
「い、いや。別に苛めてるわけじゃなくてな……」
「だめ」
「あ……うっ……。分かった、もうしないって」
愛娘には逆らえない。俺の返事に汐が頷いた。
「汐ちゃん、ありがとうございますっ。邪悪な岡崎さんの魔の手から風子を救ってくれたんですね」
そう感謝の言葉を述べて、汐に抱きつく風子。
「言いたい放題だな……」
俺の方を振り向いた風子は、さっきの汐と良く似た表情だった。
「岡崎さん、ちゃんと反省してますか?」
「してるしてる。お詫びに今日の昼飯は好きなのを奢るから」
「んー、分かりました。それで許してあげますっ」
そう言って、風子は喜びを汐とわかち合う。
元々風子の昼食代は俺が持ってやるつもりだったから、先に決めてあったことと結果はなにも変わらない。上手く誤魔化せたようだ。
しかし、風子がどんなつもりで妙なことを言い出したのかは、結局分からずじまいだった。
(ま、どうせ大した理由じゃないだろうしな)
そう考えてから、俺は風子と汐の会話に加わり、昼はどこで何を食べようかと三人で考え始める。
――俺が風子の発言の真意を知るのは、もう少し先の話だった。
結局、昼飯は学校の通学路にあるファミリーレストランと決まった。
あまり代わり映えはしないが、そこそこリーズナブルで味も上々、メニューも豊富なのだから妥当なところだろう。小洒落たベトナム料理店なんかに入って、汐の食べられそうな物がなかったりしたら意味がない。
そもそもが、俺も風子もあまり食べ物屋に詳しくなかったりする。せっかく久しぶりに外で食べるというのに、学生寮の前の定食屋というのも味気ないだろうし。
夏に早苗さんと入って以来久しぶりにファミレスのドアをくぐると、ウェイトレスが禁煙席まで案内してくれる。冬だけあって少し厚着になってはいるが、相変わらずここの制服は可愛いデザインだった。
俺と風子が対面に、汐がウェイトレスの用意してくれた子供用の椅子に座って、手渡されたメニューをみんなで覗き込む。
「なになに、『冬の味覚・北海道フェア』か。……おっ、汐、お子様ランチにも北海道バージョンがあるみたいだぞ」
「ほっかいどー?」
「えっとな、こっちはカニピラフになってて、乗っかってるのが北海道の旗だ。それからデザートに夕張メロンのシャーベットが付いてくる」
汐は写真を見比べると、北海道バージョンを指差した。
「こっち」
割と汐は即断即決なタイプだと思う。
「よし、汐は決まりだな。俺は……っと、この北海道シーフードカレーにしよう」
普通のシーフードカレーとどう違うのか分からないが、値段が安いのは魅力だ。手持ちは少々残っているし、汐が元気になれば俺もまた働けるから、それほど倹約する必要もないだろうとは思うが。多分、俺は根っから貧乏性なのだろう。
「風子、お前は何にするか決まったか?」
メニューとにらめっこをしている風子に問いかける。
「えっと、今考えてます。もう少し待ってください」
「このウニ丼なんか美味そうだぞ。これにしろよ」
「う……。風子、ウニは元々嫌いじゃないですけど、今はしばらく見たくないです……」
「だろうな。やっぱりトラウマになってたか」
「岡崎さん、分かってて勧めましたねっ。最悪ですっ」
などと大騒ぎしていると、ウェイトレスに「他のお客様のご迷惑になりますので」と注意される。
結局、風子はホタテドリアを選んだ。三人分の料理と飲み物を注文し、雑談しながら待っていると、しばらくして料理が順次運ばれてきた。
「お、これは美味いな」
シーフードカレーは貝、エビ、イカ等々具だくさんで、かつコクのあるカレーソースが絶妙だ。
「ほんとですか? 風子にも一口食べさせてください」
「ああ、いいぞ」
俺が頷くと、風子は紙ナプキンを取って自分のスプーンを拭い、カレーをすくって口に運んだ。途端に、みるみるうちに涙目になる。
「か、辛いですっ」
コップを掴み、慌てて水を飲み干す風子。
「辛口だからな。注文するとき聞いてただろ?」
「風子、すっかり忘れてました」
はぁっ、と溜め息をついた後、
「でも、味はとっても美味しかったです」
と、にっこり笑った。
「だよな。この値段でこれだけ美味いカレーが食べられるとは思わなかった」
「岡崎さんはカレーが好きなんですか?」
風子の疑問に、ピラフと格闘していた汐が答える。
「パパのだいこうぶつ」
「そうですか。じゃあ、風子も今度作ってみます。こんなに美味しくできるかどうか分かりませんけど」
「そりゃ楽しみだ。期待してるよ」
実際、風子の腕前はかなりのものだと思う――必ず何か一品、ヒトデを象った料理が入るのを気にしなければ。
「汐、ほっぺたにお弁当付いてるぞ。ちょっとじっとしてろ」
「……ん」
「よし、取れた」
こんなふうに外でゆっくりと団らんするのも悪くない。特に汐は闘病生活で長いこと部屋から出られなかった分、これからは楽しい思い出になるようなことをたくさんしてやりたいと思う。
一足先にカレーを食べ終えた俺は、ハンカチで額に浮かんだ汗を拭い、アイスコーヒーを飲みながらゆっくり二人を待つことにする。
そこに、近くから男の声が聞こえてきた。
「君、バイトは何時に終わるの?」
軽い頭痛を覚えつつ声の方を見ると、角の席に座った若い男数人がウェイトレスに声をかけていた。
「あ、ゆ、夕方まで……」
「そうなんだ。じゃあ夕飯奢るから、一緒に食べに行こうよ」
台詞におよそ個性というものが感じられない。ウェイトレスの女の子は場馴れしていないようで、おどおどしながら答えている。
「け、結構です。家で母が作ってくれているはずですから」
可哀想だけれど、以前に釘を刺されたこともあって、とりあえずは静観する。すぐに店の人間が来てくれるといいのだが。
「それなら、先にケータイでお母さんに連絡入れとけばいいんじゃない? 今日は友達と食べてから帰るって」
一人が立ち上がり、ウェイトレスの肩に手を回す。
「あの。こ、困ります」
「そう言わずにさ。ちょっと遊んでいくだけなんだから」
「やっ、放してくださ……」
ウェイトレスの目に涙が浮かんでいるのを見た俺は、仕方なしに立ち上がる。
「悪い、俺ちょっと行ってくるから。汐と風子はゆっくりしててくれ」
小声で二人に告げると、風子が心配そうな顔で言った。
「怪我、しないでください」
「ああ」
続いて、汐も。
「パパ、だいじょうぶ?」
「多分な。心配いらないって」
俺は安心させるように二人へ微笑みかけてから、席を離れた。
警戒されないよう、ただ通りがかった風を装いながら、ウェイトレスの肩を抱いている男の後ろまで歩いていく。そして、不意にその肩に回された手を掴んだ。
「いっ……!」
「なあ、その辺にしとかないか?」
手が外れたことで、ウェイトレスが男の腕から抜け出した。俺が目で促すと、半泣き状態の女の子は頭を下げ、店の奥へ走り去っていった。多分、上の人間を呼びに行ったのだろう。
「てめえ、何か文句でもあんのかよっ」
「邪魔するんじゃねえっ」
こっちが一人と見て、座っている連中が声を荒らげる。俺は痛そうに顔をしかめて呻く男の手を放してやった。
「ナンパするなとは言わないが、無理強いは止めとけって」
俺が諭すように言っても無駄のようだった。
「うるせえっ。こんなことして、タダで済むと思ってんのかっ!」
俺に腕を掴まれていた男がいきり立つ。穏便に済ませるつもりが、失敗だったようだ。別にそれほど強く掴んだつもりはなかったんだが。
相手は三人。できればこんなところで喧嘩したくはない――店に迷惑がかかるし、汐や風子を恐がらせてしまう。どうしたもんかと考えていると、相手の顔に見覚えがあるのに気付いた。
「なあ。あんたら、前にも同じようなことやってなかったか?」
「はぁっ?」
「この店がオープンしたての頃にさ、同じようにウェイトレスをナンパしようとしただろ。で、俺ともう一人のサングラスを掛けた男が止めに入って……。覚えてないか?」
「……あっ。てめえ、あのときの!」
どうやら合っていたようだ。状況が似ていると思ったら、そもそも相手まで同じだったらしい。
「いやぁ、懐かしいな。あれから六年も経つのに、まだ同じことやってんだ」
確か、オッサンが渚のウェイトレス姿を見たいと言い出して、二人でこのレストランへ繰り出してきたんだった。そのとき、この連中が渚をナンパしようとしたのを見かねて、俺とオッサンは渚を放すよう連中に詰め寄った――ちょうど、今の俺のように。
当時の俺にはつまらない日常の一エピソードに過ぎなかったそれも、今こうして思い返してみると、いつの間にか懐かしい思い出に変わっていたようだ。
もっとも、俺と連中こそ同じだが、他のシチュエーションは違っている。当時の季節は春で今は冬だし、俺の連れはオッサンじゃなく汐と風子だった。
そして――渚はもういない。
「……てめえ、馬鹿にしてんのかっ」
男の一人が俺に食ってかかる。懐かしさを感じているのは、俺だけのようだ。
「そんなつもりはないって。そう興奮するなよ」
「うるせえっ!」
腕を掴まれていた男が俺に殴りかかってきた。テーブルとテーブルの間の通路はそう広くはないが、俺はなんとか体を翻し、その大振りのパンチを躱す。男はそのままバランスを崩し、床へ派手に転倒した。
「きゃあっ」
近くのテーブルに座っていた女性客が、驚いて悲鳴を上げた。幸い、今のところ被害は出ていないものの、このままだと店に迷惑をかけてしまいそうだ。
「野郎……っ」
残りの二人が腰を上げる。まずいな、と俺が思ったとき、店の奥の方から数人の男が現れ、俺達の方へ駆け寄った。
「お客様方。ご迷惑になりますので、店内でのそのような行動はお慎みください」
言葉こそ丁寧だが、口調には有無を言わせない響きがあった。さっきのウェイトレスとは違って、場馴れしているようだ。
どうやら無事に済みそうだった。俺は心配そうにこちらを見ていた汐と風子に向かってウィンクし、安心させてやった。
しかし考えてみると、こうして注意されるのは本日二度目だ。俺は迷惑な客なのかもしれない、と少し反省する。
「おそれいりますが、奥までご同行頂けますか?」
店員の一人が俺に声をかけてきた。迷惑をかけたという意味では俺も同罪だから、当然だろう。見ると、あの三人は観念したのか、すごすごと他の店員に連れられていくところだった。
「あ、ちょっと待ってください」
俺は店員にそう言ってから店内の方を振り向き、
「皆さん、お騒がせしましたっ」
と謝罪して頭を下げる。
すると、あちこちからパチパチと拍手の音が聞こえてきた。あんまり誉められるような行動ではなかった気がするので、なんだか気恥ずかしい。
俺は汐達に手を振ってから、店員に従って店の奥へ向かった。
多少のお小言は覚悟して案内された部屋へ入ると、そこには先客がいた。
ひとりは、俺が助けたウェイトレスの女の子だ。彼女は俺を見ると顔を赤くし、慌てて頭を下げた。
「さ、先ほどはありがとうございましたっ」
「あー。礼を言われるほど大したことはしてないしさ」
「いえ。わたし、どうすればいいのか分からなくて……。本当に助かりました」
そして、もう一人は――
「岡崎さんでしたか。お久しぶりですね」
この店の店長だった。確か、名前は土方と言ったか。
「すんません。またお節介なことをしちまったみたいで……」
俺を案内してきた店員が尋ねる。
「店長、こちらのお客様とお知り合いですか?」
「ああ、少しね。岡崎さんに関しては私が引き受けるから、君達二人は持ち場に戻ってもらえるかな」
「分かりました」
「は、はいっ」
ウェイトレスの女の子は、また俺に向かっておじぎする。そして、二人は部屋を辞していった。
「岡崎さん、どうぞお座りください」
勧められ、俺はソファーに腰かけた。店長もその正面に座る。
「申し訳ありませんが、経緯をお教え頂けますか?」
「あ、はい」
俺は手短に、事の成り行きを説明した。ある意味、当事者の片方の一方的な物言いだったが、店長は俺の言葉を信用してくれたようだった。お咎めはないと知って、少しほっとする。
「岡崎さんに助けていただいたウェイトレスですが、彼女は本日から接客の方へ配属になったばかりで、そういった場面には不慣れだったようです」
確かに、いきなりでアレじゃ、パニックになるのも無理はない。
「もっと穏便に済ませるつもりだったんですが、どうも俺、そういうのに向いてないみたいで……目つき悪いっすから。ほんと、すんません」
謝ろうとする俺を、店長が押し止める。
「いえ、本来は私どもが対処すべき物事ですから、お客様である岡崎さんのお手を煩わせてしまいまして、こちらの方が申し訳ないくらいです。大事には至りませんでしたし、どうかお気になさらず」
「そうっすか。そう言ってもらえると、助かります」
とりあえず、ゴタゴタに関しては一件落着だった、そこで、俺はおずおずと切り出した。
「あの……店長さんは、渚のことは……?」
穏やかだった店長の表情が曇る。
「お聞きしております。まだお若いのに、残念なことでした」
「ええ、俺も長い間落ち込みました。ふぬけみたいになって、育児も放棄して……。ほんと、自分でも情けないっすよ」
正直、今もまだ胸の痛みは消えていない。が、店長は首を横に振って言った。
「岡崎さんは、奥さんを愛していたんですね」
「……っ」
俺は、込み上げてくるものを必死に堪えた。
そう、俺はあいつのことが大好きだった。ずっと一緒だと二人で誓いあった。あいつが隣にいてくれるだけで、俺は幸せだった。だけど――
「……だけど、いつまでも後ろを向いてちゃいけないっすよね。俺を支えてくれた人達に申し訳ないし、娘を悲しませることになる。それに、あいつにだって顔向けできない。
今はまた、笑えるようになりました。時間はかかったけど、たくさんの人に助けられて俺は立ち直れたんです」
店長は穏やかに微笑んで頷いた。
「そうでしたか。岡崎さんは頑張られたんですね」
「いや、まだまだっすよ。娘が立派に成長するまでは、もっと頑張らなきゃいけません」
父さんが俺を育ててくれたように。色々と行き違いはあったけれど、今は純粋に父のことを尊敬することができた。
そのとき、部屋のドアが外からノックされた。店長が誰何すると、ドアが開かれた。
「お連れ様をご案内いたしました」
ドアの外には店員が一人と、汐の手を引いた風子が立っていた。
「岡崎さん、大丈夫ですか?」
「ああ、心配かけてごめん。とりあえず、お咎めはないみたいだ」
心配顔の二人に、俺は笑顔で答えた。
「……パパ、かっこよかった」
「そうか? あんまり大したことはやってないような気がするけど」
「いえ。風子も格好いいと思いました」
「そりゃ、ありがとな」
店長が俺に問いかける。
「こちらのお子さんが、渚くんの……?」
「はい、娘です。汐と言います」
店長はソファーから立ち上がると、汐の前まで行って体を屈めた。
「汐ちゃんは、お父さんのことが好きですか?」
問われた汐は、大きく頷く。
「うん、だいすき」
「そうですか」
店長が優しげに目を細め、汐の頭を撫でた。この人もまた、俺達のことを案じていてくれたんだと悟る。
このレストランができたとき、俺は自分の見知ったものが失われてしまう不安に、理不尽な反発を感じた。けれど、いつの間にかこの場所さえ、大切な思い出の場所になっていたのだ。
オッサンが変わってほしくないと願ったあの森も、今は大きな病院へと変わり、そこで俺は椋と再会した。失う痛みと出会う喜びは、表裏一体なのか。
町は変わっていく、好むと好まざるとに関らず。だけど、変わっていく先にも何か新しいものとの出会いが待っているのだろう。
そしてきっと、俺自身もまた――
レストランを出ると、空はどんよりと曇っていた。
「また雪でも降ってきそうだな。早いとこ家へ帰るか」
「うん」
汐が頷く。しかし、汐を挟んで反対側に立っている風子は、空を見上げたまま反応を示さない。
「どうしたんだ、風子?」
不審に思って声をかけると、風子の体がぐらりと揺れた。地面に叩きつけられそうになる直前、俺は風子をなんとか抱きとめた。
想像していたよりも、ずっと華奢な体だった。香水ではない、甘やかな香りが鼻をくすぐり、こんなときだというのに俺の胸が高鳴る。
しかし、風子は変わらず、茫洋とした瞳で空を見上げるのみだった。
「風子、どうかしたのか? おいっ」
「ふーこさん」
俺達の呼びかけに、ようやく風子が我に返った。
「あ……ごめんなさい。風子、ちょっとぼーっとしてました」
「お前、もしかして体の具合が悪いのか?」
風子は大怪我から回復したものの、まだ完治し切ってないのではないだろうか。俺は心配になる。
が、風子は首を横に振った。
「いえ、風子は夕飯の献立を考えていました。そうしたら、足元がお留守になってしまったみたいです」
「夕飯って……。今食ったばっかりなのに、気が早過ぎるんじゃないか?」
俺は少しばかりほっとする。
「そんなことないです。風子、いつもどれをヒトデ型にするか悩んでしまいます」
「そっちかよ……」
どうやら心配はいらなそうだ。俺は風子を立たせてやった。
「汐ちゃんは何か、夕ご飯のリクエストはありますか?」
「んと……らーめん」
汐がしばし考えた後、そう答えた。
「ラーメンですか。それは名案ですっ。さすがは汐ちゃん、岡崎さんと違って頼りになりますっ」
「はいはい、好きに言ってくれ。まあ、ナルトならヒトデの形をしててもあんまり違和感ないしな」
風子は大きな目をさらに見開いて、俺をびっくりした面持ちで見つめてきた。
「岡崎さん、もしかして『くれあぼわいやんと』ですかっ?」
「いや、それちょっと意味違うし」
などと賑やかにやりとりしながら、俺達は家へ向かって歩き出した。
端から見たら、仲のいい家族に見えるのだろうか。ふとそんな疑問が心をよぎり、それも悪くないな、と考えている自分に気付く。
――きっと、俺自身もまた少しずつ変わっていくのだろうと、微かに寂しさを胸の奥に感じながら。
続く