果てしなき河の先に
第五話・朋あり遠方より来る
2004-09-11 by Manuke

 週に一度は顔を出すこと――それはかつて、渚と同棲を始める前にオッサンと交わした約束だった。
 汐が病に伏せていたために長らくその約束を守ることができずにいたが、こうしてすっかり回復した今、俺達は三人で古河パンへとやってきていた。
 実のところ、ここ連日オッサンや早苗さんとは顔を合わせてはいたが、「たまにはそっちから遊びに来い」と昨日オッサンに誘われたのだった。
「ちーっす」
 声を上げて入り口をくぐると、オッサンが退屈そうにレジの向こうでタバコをくゆらせていた。
「秋生さん、こんにちは」
「あっきー、こんにちは」
 風子と汐がぺこりと頭を下げて挨拶した。なんだか、日に日に二人の仕草が似てきているような気がする。
 オッサンはタバコを咥えたまま、ニカッと笑った。
「おっ。汐に風子、良く来たな」
「……俺にだけ挨拶なしか?」
「てめえがいなきゃ俺は両手に花でウハウハなのによ。小僧、てめえ一人仕事にでも行きやがれ」
「孫相手にウハウハとか言うなっ。大体、俺が仕事に戻るのは来週からだ」
 まったく、このオッサンはどうしようもない。
「まあいい、ちょうど退屈してたとこだ。小僧、店番代われ。俺は風子達と遊んでくるから」
 オッサンが自分の仕事を俺に押しつけようとしたとき、厨房の方から声が聞こえた。
「秋生さん、そんなことをしては駄目ですよ」
 トレイを手にして現れたのは早苗さんだった。
「朋也さん、汐、風子ちゃん、いらっしゃい」
「ちっす」
「こんにちは、早苗さん」
「こんにちは、さなえさん」
 俺達は挨拶を交わす。チェックのセーターにジーンズという出で立ちの早苗さんは、相変わらず若々しい。オッサンがうらやましいくらいに。
「だってよ……。しばらく客も来てねえしさ、飽きちまったんだ」
 ガキそのものの発言をするオッサン。
「そうですか。それなら仕方ありませんね」
 仕方なくはないと思いますが、と突っ込みたいのを堪える。
「でも、こうしてみんなでお話していれば、きっと気も紛れますよ」
 早苗さんの提案に、オッサンが不承不承頷いた。
「それで我慢してやるか。小僧、感謝しろよ」
「オッサン、あんた何様だよ……」
 呆れ顔で俺が呟くと、オッサンは意味もなく不敵に笑って言った。
「決まってるだろ。古河秋生様、パン屋の主人だ」
「主人ならちゃんと働けっての」
 そこで、早苗さんが俺に話題を振ってくる。
「『働く』と言えば、朋也さん、お仕事が決まったんですか?」
 さっき俺がオッサンに言ったことを早苗さんも聞いていたのだろう。俺は頷いた。
「ええ。来週から、また元の職場へ戻れることになったっす」
「そうですか。それはよかったですねっ」
「はい。長いことやってましたし、仕事にも愛着ありますから」
 また芳野さんと一緒に働けるのも嬉しい。
 と、そこで風子が早苗さんに向かって尋ねた。
「早苗さん、その……」
「風子っ」
「ふーこさんっ」
 それを止めさせようと俺が肩に手を置き、汐が袖を引っ張るが、風子は最後まで言い切ってしまった。
「……トレイに載っているのはなんですか?」
 早苗さんは満面の笑みになって、風子に向かってトレイを差し出した。
「前回のクモヒトデパンは風子ちゃんにも今ひとつ不評でしたから、研究に研究を重ねて改良してみました。題して――コノワタ風味オニヒトデパンですっ」
 ――説明されるまでもなく、その駄目さ加減が分かってしまう。
 今回のデザインは、海の悪魔と恐れられるオニヒトデなのだろう。それは、真ん中から十数本の腕が生え、背中には無数のトゲが突き出している凶悪な形状だった。確か、サンゴを食べる迷惑な生き物として嫌われていたはずだ。もっとも、オニヒトデ自身は生きるためにサンゴを食べているだけで、良いも悪いもないんだろうけど。
「今日のは以前の反省点を活かして、同じ棘皮動物でもウニではなくナマコのコノワタにしてみました」
 どうして、より危険な方向へ行ってしまうのだろうか。
「オッサン、なんで止めないんだよっ」
 小声で文句を付けると、オッサンは憮然と反論してくる。
「馬鹿やろ。てめえ、そんな可哀想なことができるかっ。早苗はな、自分の作ったパンを喜んで食べてもらうのが夢なんだよ。その純粋な想いを無にすることがてめえにはできるのか、小僧?」
「うっ……。だ、だけど、いくらなんでも限度ってものがあるだろ? それとなく注意してやれよ」
「年がら年中、早苗を見張ってろってのか? それじゃ、俺が遊ぶ時間がなくなっちまうじゃねえか」
 駄目だ、このオッサンは……。
 俺達がそんなやりとりをしている間にも、風子に魔の手が伸びていた。
「さあ風子ちゃん、どうですか? 今日のパンは機動力も強化されてますよ」
「早苗さん、モビルスーツじゃないんですから……」
 俺の言葉は、二人には届いていないようだった。
 風子は熱にうかされたような表情で、そのトレイ上の魔物を見つめる。そして、その腕がゆっくりと伸ばされた――手が震えているのは、理性とのせめぎあいからだろうか。
 しかし、予想通りその理性はあっさりと敗北する。風子はオニヒトデパンを一つ手に取ると、それに頬擦りした。
「か、可愛過ぎますっ」
 そして、風子はいつものように逝ってしまわれた。トゲトゲしてて痛そうなんだが、気にならないのだろうか。
 ほわーんとした様子の風子をどうしたものかと考えているとき、俺の脳裏に一つのアイディアが浮かんだ。
「オッサン、ちょっと飲み物を売ってくれ」
「ん? ああ」
 俺の表情から何かを察したのか、オッサンは茶々を入れることもなく頷いた。俺は冷蔵庫から紙パックを取り出すと、小銭をオッサンに払った。
 手にしたものは二つ――牛乳とミックスジュースだった。脇に付けられたストローをパックに突きたてると、俺は身構える。
 右手に牛乳、そして左手にミックスジュース。勝負は一瞬だ。
 夢の世界の住人である風子の鼻へ、二本のストローをそれぞれ差し込んだ。そして、気合いとともに紙パックの腹を押す。
「はっ」
 ちゅちゅうっ!
 ほぼ同時に風子の鼻の穴へ二種類の液体が流れ込む。
「んんーっ!」
 風子が我に返るのと同時に、俺は飛び退いて平静を装った。さて、結果は……。
「なんか、鼻がヘンですっ」
 そう言って鼻をかもうとする風子。
「んー、むずがゆいですけど何も出てこないです。それに、何故か喉が潤ってます。ちょっとフルーツ牛乳風味です」
 やった……俺は見事にやり遂げた……。

  《『風子の鼻からジュースを飲ませる』の新たな境地を切り拓いた!》

「小僧、てめえ……」
 俺が感慨に浸っていると、ふいにオッサンが真剣な表情で呟いた。
「あ、いやその、今のはだな……」
 慌てて俺は言い繕おうとする。考えてみれば、風子以外の人間には一部始終を見られていたのだった。俺ってもしかしてアホなんだろうか。
「驚いたぜ。いつの間にか、そんな技を編み出せるようになっていたとはな。
 小僧――いや、朋也。てめえは今、俺を越えたのかもしれん。こんな時が来るとは、想像もしてなかったぜ……」
 静かな口調で語るオッサンの瞳には、何故か誇らしげな色が見えた。
「そんな凄いもんじゃないって。バリエーションは色々考えられるけどさ、組み合わせて面白いジュースってのはそうそう……」
 俺の言葉を、オッサンが途中で遮る。
「てめえは紙パックに囚われ過ぎてるんだよ。自分が編み出した二液混合技の威力を分かっちゃいねえ。
 いいか、例えば、だ。てめえ、『オロ○ミンセーキ』ってものを聞いたことがあるか?」
 その単語を聞いた瞬間、俺の背筋を戦慄が走り抜けた。
 オロ○ミンセーキ――それは今なお伝説として語り継がれる飲み物だった。作り方はごく単純、炭酸飲料のオロ○ミンCに卵を落としてかき混ぜる。それだけだ。
 真の恐ろしさは、こともあろうにこの奇天烈な飲み方をテレビCMで放映していたという事実にあった。俺の生まれる前の話だから風の噂に聞いただけだが、数多くの純真無垢な子供達がそのCMに騙され、若い命を散らしたらしい。
「オッサン。あんたも、もしかして……」
 俺の問いに、オッサンは口の端を皮肉げに持ち上げ、遠くを見る目つきになった。
「……さあな。そんな昔のことは忘れたさ」
 そして俺に視線を戻して続ける。
「んなことはどうでもいいんだよ。つまりはな、応用力だ。小僧、てめえは発想だけは大したもんだが、それを発展させる方がなっちゃいない。まだまだ経験が足りねえってことだな」
「あ、ああ……。悔しいけど、オッサンの言う通りだ。紙パックに囚われなきゃ、もっと色んなアイディアが出てくるもんな。例えば、ウォッカとオレンジジュースでスクリュードライバーとか」
 俺の言葉に、オッサンはニヤリと笑った。
「まずまず、だな。まだ飲み物の枠からあんまり踏み出してないが、酔わせようとする相手に鼻から飲ませるってあたりは悪くねえ。六十点ってとこか」
 手厳しいが、やはりオッサンにはまだ及ばない。
 しかし、そこで俺の手が引っ張られた。見ると、汐が相当におかんむりのようだった。
「……パパ。ふーこさんをいじめちゃだめ」
「あ、ああ……。分かった」
 あっさりと降参した俺に、オッサンが文句を付けようとする。
「おいおい。小僧、てめえな……」
 しかし、汐はオッサンにも注意した。
「あっきーも、だめ」
「ぐっ……。仕方ねえ、諦めるか」
 台詞こそ嫌々ながらといった感じだが、口調と表情がそれを裏切っている。その理由は当然、汐が可愛過ぎるためだった。
 小さな汐が腰に手を当てて上を仰ぎ、『パパは悪い子』とばかりにこちらを可愛らしく睨んでいるのだ。これで陥落しない方がどうかしてるだろう。
 愛娘に叱られるというシチュエーションがこうも楽しいものだとは、思ってもみなかった。オッサンがさんざん渚にちょっかいを出しては怒られていたわけが分かったような気がする。もう、親馬鹿でも馬鹿親でも構わないって感じだった。
 早苗さんは、そんな俺達を『あんまりいたずらしては駄目ですよ』という様子でにこにこと眺めている。風子は一人、きょとんとした表情で事態が飲み込めていないようだった。
 思うに、この五人の中で一番常識的なのは汐なのかもしれない。オッサンや風子は言わずもがなとして、早苗さんも微妙にずれているところがあるし、俺も常識人とは言い難かった。最年少で幼児の汐が最も常識をわきまえているというのも、俺達一家らしいと言えるだろうか。
「小僧、ちゃんとそれ飲めよ。勿体ねえから」
「ああ、分かってる」
 オッサンにそう言われ、俺は紙パックのストローを二つ咥えて吸った。思っていたよりもフルーツ牛乳っぽくなかったが、改良する機会はもうないだろう――『鼻からジュース』技は封印されてしまったからだ。もとより、風子にオロ○ミンセーキを注ぎ込むなどという非道なことをするつもりはなかったから、それで良かったのかもしれないが。
 そのとき、ふいに店の外から声が聞こえた。
「こんにちはーっ」
 若い女の声だ。パンを買いに来た客だろうか。俺達三人は入り口を占拠してしまっていたので、脇にどいてその客の通り道を作る。
 店に入ってきたのは、二十歳過ぎぐらいの小柄な人だった。セミロングの髪を後ろで一本に縛り、オリーブ色のハーフコートを羽織った、可愛い印象の女性だ。彼女は俺と視線が合うと、にっこり笑う。
 俺はその顔に見覚えがあった。
「……もしかして、芽衣ちゃんか?」
「はい。ご無沙汰してます、岡崎さん」
 芽衣ちゃんは俺に向かっておじぎした。
「秋生さんと早苗さんも、お久しぶりです。これ、つまらないものですがお土産です」
 続いてオッサン達にも挨拶する。
「いらっしゃい、芽衣さん。ご丁寧にありがとうございますねっ」
「おう、ゆっくりしてけよ」
 驚いた様子もなく答える二人。芽衣ちゃんが来るのを知っていたのだろうか。
 しかし、面影こそ残っているものの、芽衣ちゃんはずいぶんと大人っぽくなっていた。俺の隣にいる風子とは大違いだ。
 俺が感心していると、もう一人の人物がパン屋の入り口をくぐってきた。
「よう、岡崎」
 芽衣ちゃんより少し年齢が上の若い男は、しゅたっと手を上げて笑った。冬の日差しを受けて、その歯がキラリと光る。
「……誰だっけ、お前?」
 豪快なコケを見せる男。
「なんで芽衣のことは覚えてて、僕のことだけ忘れますかねえっ」
「そりゃ、お前が『ボクのこと、忘れてください』って言ったから」
「言ってねえよっ」
 その妙な剣幕に脅えたのか、汐と風子が俺の後ろに隠れた。
「いいから落ち着け。ちゃんと思い出してやるから。えーと、確か……す、すの」
「そうそう、その調子……」
 立ち直った男は、俺が腕組みして思案するのを見守っている。
「すのは……スノコ巻き?」
 ズベシャッと男がまた派手にコケた。
「そんなにいいものじゃないですけどね」
 芽衣ちゃんが苦笑しながら、止どめを刺す。
「芽衣、兄に向かってその言い草はなんだっ。岡崎も、どうしてそこまで出てながらスノコに行っちゃうんだよっ?」
「だってお前、以前ラグビー部の奴らにスノコでぐるぐる巻きにされて川に放り込まれたことがあっただろ」
「うっ……」
 スノコ巻き――別名す巻き。どうやって生還したのか、今もって不思議だった。当時を思い出したのか、ガタガタと震え出す男――と言うか春原。
「――と言うかヘタレ」
「全部、聞こえてるんだけど……」
 こめかみをひくつかせて春原が俺に突っ込む。
「俺は全然気にしてないからさっ」
「それ、僕が言う台詞じゃないですかねえっ!」
 叫んで、春原は肩でゼイゼイと息をした。
 ふと、俺と奴の目が合う。どちらからともなく、俺達は笑い出した。
「くっ、ははは」
「へへっ」
 ずっと長いこと会っていなくても、俺達は俺達だった。
 いつも馬鹿をやっていたあの日々は、ずいぶん遠くなってしまった。けれど、こうして再会すればすぐにでも、その空白を埋めることができる。
 俺も春原もきっと昔とは変わってしまったのだろうが、それでも俺達はあの思い出と繋がっているのだから。
 笑い終えたところで、俺は春原の肩を強く叩いて言った。
「ほんと、久しぶりだな。春原」
「ああ。もう五年になるのかな?」
 顔をしかめながらも春原が頷いた。
「前に二人に会ったのは――確か、渚の葬儀のときだったよな。あのときはろくに話もできなくて、すまなかった」
 努めてさり気なく言ったつもりだったが、やはり芽衣ちゃんの表情が暗くなる。
「あ、いえ。それは、全然……」
「気にすんなって」
 春原はそう答えると、ニッと笑った。その表情が何故か少し気にかかった。
 そのとき、俺の後ろに隠れていた汐が足の陰から顔をのぞかせて二人を見上げた。芽衣ちゃんがそれに気付き、屈み込んで汐に話しかける。
「もしかして、汐ちゃん?」
「……うん」
 頷いて、汐は小首を傾げた。
「そうなんだ。ずいぶん大きくなったね。会ったのは汐ちゃんが赤ちゃんのときだから、覚えてないだろうけど。
 わたしは岡崎さんと渚さんのお友達で、春原芽衣です」
「パパとママのおともだち?」
「はい」
 芽衣ちゃんが汐に頷くと、その後ろから春原が妙なポーズを取って言った。
「そして僕は、芽衣の兄にして岡崎の親友――愛の伝道師、春原陽平さっ」
 幼児に向かって何を格好つけてんだか、この馬鹿は。案の定、妙な二つ名のせいで汐が混乱している。
「で……ど……どうけし?」
 春原は笑顔のまま一瞬固まり、芽衣ちゃんがぷっと吹き出した。
「ち、違う違う。伝道師だって。で・ん・ど・う・し」
「てんとうむし?」
 ギギギ、と俺の方へ首を向ける春原。
「岡崎……。お前、この子にどういう教育してるんだ?」
 俺が汐にボケを仕込んでるとでも思ったのだろうが、幼稚園児が『伝道師』なんて単語を知らなくたって何の不思議もない。一言言ってやろうとしたとき、
「……そこの小僧。てめえ、いい度胸してるじゃねえか」
 オッサンが地の底から響くような低い声を上げ、春原をねめつけた。
「ひぃっ……」
「汐がそう言ったら、素直に頷いとけ。まだチ○コもろくに生え揃ってないガキの分際で、気が利かねえ奴だな。てめえなんざテントウムシで十分だ」
 オッサンの迫力に押されて、春原は目を剥いてガクガクと頷く。オッサンよりもこっちの方がよっぽど恐い――と言うか、気味が悪い。
 芽衣ちゃんはそんな兄のヘタレぶりに溜め息をついてから、俺達の方を向いてにんまりと笑った。
「で、そちらの方が噂のお相手ですね」
 風子のことを指しているのだろう。
「……噂って、何のことだ?」
「おにいちゃんの同級生さんから聞いたんです。なんでも、仲良く同棲してるとか」
 多分、椋から杏を経由して話が伝わったのだろう。どんな尾鰭がついていることやら……。
「同棲って言うな。風子にはちょっと汐の面倒を見てもらってるぐらいだ。俺達はまだそんな関係じゃないぞ」
「へえ……。『まだ』ですか……」
 何やら含みを持たせて、いっしっしと笑う芽衣ちゃん。外見はずいぶんと大人っぽくなったのに、そんなところは変わってない。
 そこで、風子がようやく俺の後ろから出てきて芽衣ちゃんに挨拶した。
「風子は、伊吹風子と言います。汐ちゃんだけじゃなく、岡崎さんのお世話もちゃんとしてます」
 やけにこだわる風子。まあ、ここ連日風子に飯の支度を任せっきりなのは確かだったが。
「こいつはな、こう見えても俺や春原と同い年なんだ」
 椋のときのようにあらぬ誤解を生まないよう、先に告げておく。芽衣ちゃんは感心した様子で頷いた。
「そうなんですか……。あ、わたしは春原芽衣です。よろしくお願いします」
 その後ろで、ようやく恐怖から立ち直った春原が、腰をひねって髪を右手で掻き上げた。本人は格好つけているつもりなんだろうが、端から見ていると気の毒になるぐらいアホ丸出しだった。
「そして僕は春原陽平。言うなれば、愛のでんど……」
 そこでオッサンにギロリと睨まれ、慌てて訂正する。
「……愛のテントウムシさっ」
「なんか、サンバに合わせて踊り出しそうだな」
 一言感想を述べてやると、春原は目を瞑ってだくだくと涙をたれ流した。そんなに情けないなら最初っから言わなきゃいいだろうに、と思う。
 そんな春原に風子は一瞬首を傾げた後、あっと息を飲んだ。
「髪の色がヘンな人……」
「えっ?」
 そう言われた春原の方が、逆に驚く。
 当然だった。春原が髪の毛を染めていたのは高校時代のことで、今はすっかり黒髪に戻っている。春原に会ったことがない風子がそれに気付くはずはないのだ――普通に考えれば。
「あー、つまりだ。風子は一目見て、お前に最も似合う髪の色が金髪だと見抜いたんだよ。何と言うか、お前の体からにじみ出るオーラが風子にそれを悟らせたのさっ」
 とりあえずフォローをしておく。
「えっ。そう、やっぱり?」
 春原は何故か嬉しそうだ。良かった、こいつが馬鹿で。
「つーことで、お前本来の髪の色に戻してやろう。オッサン、コーラ置いてないか?」
「コーラはねえな。オロ○ミンCならあるが」
「同じ炭酸だから、脱色できるかな? 一本の量は少ないのが難点だけど、試してみるか」
 俺達の会話に、春原が顔を青くして芽衣ちゃんの後ろに隠れた。
「よ、よせって。そんなことしたら、会社クビになっちまう」
「気にするな。大事の前の小事だ」
「気にするよっ」
 芽衣ちゃんはそんな俺達のアホなやり取りに注意を払わず、風子をじっと見つめていた。
「伊吹さん――いえ、風子さんとお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「はい。風子はそれでいいです」
 風子が頷く。
「ありがとうございます。わたしのことも芽衣で構いませんから」
 そう言うと、芽衣ちゃんは風子に近づいていって、いきなり抱きついた。
「風子さん、可愛いですっ」
 そう言えば、芽衣ちゃんが渚に対しても同じようなことをやっていたのを俺は思い出した。可愛いものに目がないのかもしれない。こうしてみると芽衣ちゃんより風子の方が年下に見えるし、風子が可愛いのも確かだったが……って、俺は何を考えているんだろう。
「いたっ。あれ、このチクチクするのは何ですか?」
 芽衣ちゃんがふいに風子から体を離した。どうやら、風子がまだ例のパンを持ったままだったらしい。
「そいつは新作のコノワタ風味オニヒトデパンだな。風子のお気に入りだ……外見だけは」
「こ、コノワタですか……」
 俺の説明に芽衣ちゃんは苦笑する。事情を察したようだった。
「風子はヒトデが好きなんだ。俺には良く分からんけど、ヒトデって名前が付けば何でもいいらしい」
 そう言った俺に、風子は不満そうな目を向けてくる。
「そんなことないです。風子、ヒトデに関しては一家言ありますっ。普通のヒトデも可愛いですけど、このデフォルメされたオニヒトデもかなりのレベルと言えるでしょう」
「そうか? どっちかと言うと、俺にはリアル志向に見えるが……」
「それは岡崎さんがアートを理解しないからですっ。ヒトデを制するものは世界を制す、ですっ」
「あっそ」
 そんなもので世界を制したくない。
 俺達のヒトデ談義を見ていた芽衣ちゃんは、また風子に抱きついた。
「やっぱり風子さん、可愛いですねっ」
「いえ……。可愛いのはヒトデの方で、風子ではないです」
「ううんっ、そんな風子さんが可愛いですっ」
 芽衣ちゃんが風子に頬擦りしたとき、風子の手からオニヒトデパンが転がり落ちそうになった。俺はそれを慌ててキャッチする。
 俺の傍らにいた春原はそのパンをしげしげと眺め、顔をしかめた。
「うわ、マジかよ……気色わりぃ。これ、本当にパン? こんなの作るなんて、絶対正気じゃないよね」
 その言葉に、古河パンの店内の空気が凍った。
「えっ、何? どうかした?」
 状況をわきまえない大馬鹿が一人。ここはパン屋なんだから、それを作ったのはオッサンか早苗さんのどちらかだと想像がつきそうなものだが。
「わたしのパンは……わたしのパンはっ……」
 そして案の定、早苗さんの目に涙が盛り上がる。
「狂気の沙汰だったんですねーーーっ」
 エプロン姿で両手にミトンを付けたままの早苗さんは、泣きながら外へ飛び出していった。
「あー、えっと」
 全員が冷たい視線を浴びせる中、春原は誤魔化すように笑った。この性格で会社勤めを続けられることが不思議だ。
 そんな春原に向けて、オッサンが首を掻き切るジェスチャー、そしてサムズダウン。
「ひぃっ」
 脅える春原を尻目に、オッサンは俺の手からオニヒトデパンを受け取り、それを自分の口に押し込んだ。途端に、猛烈な勢いでその足が動き出す。その暴れっぷりは、前回のクモヒトデパンの比じゃない。
「こっ、恐え……」
 呟く俺の足に、汐がぎゅっとしがみつく。春原と芽衣ちゃんもかなり引いている様子だ。そして、何故かオッサンをうらやましそうに見つめる若干一名。
 ガキッ、ゴリッ、バキバキッ。
 オッサンがその物体Xを、もはやパンとは思えない音を立てて無理矢理噛み砕いた。途端にピクピクと痙攣しながらオニヒトデパンが大人しくなる。
 コノワタの味が口の中に広がったのか、オッサンは一瞬倒れかけた。しかし、なんとか持ち直していつもの台詞を叫ぶ。
「俺はっ、大好きだーーーっ!」
 そして、早苗さんの後を追って店から走り出ていった。
「……行っちゃいましたね、お二人とも」
 芽衣ちゃんが苦笑する。
「ああ。悪いな、バタバタしてて」
「いえ、楽しくていいと思いますよ。早苗さんと秋生さんも相変わらず仲が良さそうで、うらやましいくらいです」
 確かに、愛がなければあのパンを躊躇なく食べることなどできないだろうが。
「バタバタって言えば、二人とも来るんなら前もって連絡してくれれば良かったのに」
 俺がそう言うと、芽衣ちゃんがすまなそうに答えた。
「早苗さんには連絡したんですけどね。おにいちゃんが、岡崎さんには黙っていた方が面白いって」
 やっぱりか。
「前ぶれなしに来たら、岡崎も隠し事をする暇がないだろうと思ってさ」
「お前な、そんなことしてこっちの都合がつかなかったらどうするつもりだったんだよ?」
「えっ? そのときはそのときだって」
 全然考えてなかったようだった。春原らしいが。
 そこで、風子が俺達を眩しそうに見つめて呟いた。
「岡崎さんはお友達がたくさんいます。風子、うらやましいです」
「そうか? 俺、わりと交友範囲は狭い方だと思うんだが」
 風子は学校へ通えなかったため、友達を作れなかった。だから余計にそう感じてしまうのだろう。
「この子、友達いないの? 寂しい人生送ってんのな」
 春原がいきなりそんなことを口にした。
 ……このド阿呆が。デリカシーのない言葉に、風子は俯いてしまう。
「おにいちゃんっ、今の言い方は酷いよ」
 芽衣ちゃんが兄をたしなめるが、春原はまるで反省した様子がない。ムカついたので、その頭を一発殴っておく。
「いてっ! いきなり何するんだよ、岡崎っ」
「お前の頭にカブトムシが止まってたんだ」
「嘘つけっ。こんな冬にカブトムシがいるわけないだろっ」
「お前、本当に頭悪いのな……。冬にだってカブトムシはいるに決まってるだろが。幼虫だよ、幼虫」
 思いっきり憐れみの眼差しを向けてやった。
「えっ、マジ? あのブヨブヨした白い芋虫みたいな奴? 僕の頭、ぐちょぉ~ってなってる?」
 恐る恐る後頭部を手探りする馬鹿は放置して、俺は風子のフォローをする。
「気にすんなって。お前は最近まで入院してたんだから、友達少ないのは仕方ないだろ? それに、この間椋が友達になってくれたじゃないか」
「はい……」
 それでも風子の表情は晴れない。まあ、春原にあんな言い方をされたんだから当然か。
 そこで、芽衣ちゃんが尋ねてきた。
「えーと、風子さんは入院されていたんですか?」
「ん、ああ」
 視線を向けると、風子が小さく頷いた。俺は続ける。
「風子は俺達と同じ高校へ通うはずだったんだけど、入学早々交通事故に遭っちまったらしくてさ、ごく最近まで入院してたんだ」
「そうだったんですか……。あの、もしよろしければ、わたしも風子さんのお友達に加えていただけませんか?」
 頷いた芽衣ちゃんは、そう提案してきた。風子がおずおずと尋ね返す。
「えっと……。いいんですか?」
「もちろん。だってわたし、風子さんのこと好きですからっ」
 そう言って芽衣ちゃんは風子に抱きついた。
「それだけ仲良けりゃ、改めて言わなくても十分友達の範疇に入るだろ」
 俺が指摘すると、芽衣ちゃんも同意する。
「それもそうですね。さすが岡崎さんです」
「どうだ、風子? 芽衣ちゃんに椋、そらからもちろん俺と汐。結構増えてきたじゃないか、友達」
 俺の言葉を受けて、汐が芽衣ちゃんの反対側から風子の腰に抱きついた。
「ふーこさん、だいすき」
 風子は目尻に浮かんだ雫を指で拭って、にっこり笑った。
「はい。風子、幸せ者です」
 と、そこで春原が会話に割り込んでくる。
「なあ、岡崎。僕の頭に何にも付いてないよね……って、何してんの、お前ら?」
「気にするな」
 そして、外からはオッサンと早苗さんが帰ってきた。
「戻ったぞ」
「みっともないところをお見せしちゃいましたね」
 こういうのも夫婦円満の秘訣なんだろうか、などとアホなことを考えてしまう。
「さてと。おい、テントウムシ。覚悟はいいか?」
 唐突にオッサンはそう言い、ギロッと春原を睨む。
「ひっ……。な、何がでしょう?」
 オッサンは答えず、冷蔵庫を開けて茶色の小瓶――オロ○ミンCを取り出した。
「まあ、可哀想だから脱色は勘弁してやる。朋也、台所から例の奴を持ってこい」
「分かった」
 俺はオッサンの指示に従った。
「な、何するんすか?
 ……岡崎っ。なんだよ、その卵と漏斗はっ! ふがっ。ひぃっ、やめ……。
 う、うぎゃあああぁぁぁぁぁぁっ」

 春原と芽衣ちゃんは、古河家に一泊するようだった。さすがに東北からこの町へ日帰りでは辛いのだろう。
 ついでに俺達三人も、同じく一晩泊めてもらうことにした。せっかく遠くから来てくれたのだから、少しぐらいはもてなしたい。オッサンと早苗さんは、「にぎやかになっていい」と快く了承してくれた。
 と言うわけで、夕飯は早苗さんと風子、そして芽衣ちゃんが協力して作ることになった。残りの四人は居間で、出来上がりを楽しみに待つことにする。
 男連中+汐がテレビを見て騒ぎながら待っていると、やがて台所から女性陣が姿を現した。芽衣ちゃんが持っているのは小型コンロ。そして、早苗さんは鍋。
「おっ、鶏鍋っすか。美味そうですね」
 俺が鍋を覗き込んでそう言うと、隣にいた春原がチッチッと指を左右に振る。
「それは早計という奴だぞ、岡崎」
「てんとうむしのおじさん、しってるの?」
 汐が首を傾げて春原――呼び名が『テントウムシ』で定着してしまったが――に尋ねた。
「ああ。ちょっと待ってな、汐ちゃん。きっとすぐに運ばれてくるから」
 二人に続いて、風子が何かを載せた皿を運んできた。その皿がテーブルに置かれると、春原が変な声を上げた。
「あれ……何これ?」
「お前、知ってるんじゃなかったのかよっ」
 俺はすかさず突っ込む。人のこと、早計とかなんとか言いやがったくせに。
「いや、想像してたのとちょっと違ってさ。こんな変な星型の奴は知らない」
 皿の上には何やら白くもっちりした物体がいくつも、五芒星の形にされていた。表面は火であぶられたのか、こんがりキツネ色になっている。
「変な星型じゃありません。ヒトデたんぽ、ですっ」
 風子の言葉で謎が氷解した。本来これは、きりたんぽ鍋なのだろう。おそらく風子の要望で、ちくわ型のきりたんぽではなく、ヒトデ型に変更されたのだ。
「ヒトデたんぽなんて聞いたことないぞ。伝統文化の破壊じゃないかっ」
「そんなことないですっ。伝統に囚われ過ぎては、新しい可能性は生まれませんっ」
 高尚な議論に聞こえなくもないが、実のところ春原は予想が外れたのを八つ当たりしているだけ、風子はヒトデが変と言われたことに怒っているだけだ。
 ひどく傷つくようなことを言われたこともあって、風子は初めのうち春原を警戒していた。しかし、ただ単に底抜けの馬鹿というだけで悪い奴ではないと、風子なりに理解したようだった。仲が良いと言えるかどうかは微妙だったが。
 春原が友人として適切かどうかはともかく、こうして人と接する機会が増えていくのはいいことだと思う。風子はまだ、少し対人関係では後ろ向きになりがちだったから。
「二人とも、その辺にしておきましょう。ヒトデたんぽが良いかどうかは、食べてみて決めるというのはどうですか?」
 早苗さんが風子と春原をやんわりとたしなめる。
「そ、そうっすね。早苗さんの言う通りですよっ」
 急に意見を翻す春原。相変わらず分かりやすい奴だった。
 鍋にヒトデたんぽを放り込み、数分してから芽衣ちゃんがセリをスープにくぐらせた。それで出来上がりのようだ。早苗さんに小鉢へ取り分けてもらって、早速みんなで味見する。
「……ん。まぁ、不味くはないかもな」
 ヒトデたんぽを味わった春原が、しぶしぶといった感じで認めた。
「春原さんは素直じゃないです。ヒトデたんぽは最高ですっ」
「かわいくて、おいしい」
 風子の主張に、汐も同意した。たかが外形じゃないかと思うが、口に出すと荒れそうなので止めておく。
「ほぉ、これは比内地鶏だな。いい肉だ」
 オッサンが鶏肉を噛み締めて呟いた。
「さっき芽衣ちゃんから頂いたお土産が比内地鶏だったんですよ」
 と早苗さん。芽衣ちゃんは、えへへと頭を掻く。
「実は、こうして鍋をご一緒させて頂けるかもという打算もありまして」
「いや、全然構わないって。美味しいものってのは、みんなで囲めばもっと美味しくなるもんだからさ。なっ、汐」
 俺が声をかけると、汐もにっこり笑って答えた。
「うんっ」
 そうして、鍋を囲みながらの楽しい団らんがゆっくりと過ぎてゆく……。

 俺と春原は客間で寝ることになった。ちなみに、風子と芽衣ちゃん、そして汐は、三人一緒に渚の部屋だ。
 押し入れから布団を引っ張り出して、畳の上に敷く。そして、その上に大の字に横たわって手足を伸ばした。
「ふぅっ、ちょっと酔いが回っちまったか」
 オッサンの晩酌に付き合わされて、俺はほろ酔い加減だった。
「なんだ。だらしないぞ、岡崎」
「ああ。しばらく飲んでなかったからな。何かを忘れるための酒ってのは不味いけど、今日の酒は美味かった」
「そんなもんかな?」
「そんなもんさ」
 しばしの沈黙。
 そして、俺は春原に声をかけた。
「なあ」
「ん?」
「どうして急に訪ねて来たんだ?」
「……どうしてって、別に大した理由なんかないって」
 顔をそちらに向けなくても、春原がどんな表情をしているのか俺には分かった。
「水臭いな。俺達の仲だろ、変に遠慮なんかするなよ」
「……」
 少し間を置いて、春原が重い口を開く。
「僕ってさ、本当に岡崎の友達でいられてんのかな?」
「あん? そりゃどういう意味だ?」
「だからさ……。岡崎が渚ちゃんのことで落ち込んでたとき、僕は何にもできなかっただろ。そういうのって、本当に友達って言えるのかな……」
 珍しくシリアスな春原に困惑するものの、俺はすぐにピンと来た。
「ははぁ。お前、杏あたりになんか言われたんだろ?」
「うっ」
 たじろぐ春原。図星のようだった。
「で、どんな風に言ったんだ、杏は?」
「確か、『あんたは親友のくせに、朋也が辛いときに力づけてやれなかったんだから、こんなときぐらいは顔を見せに行きなさいよ』って」
 杏らしい台詞に、思わず頬が緩む。
「そんなこと気にするなって。あいつは別にお前を責めたわけじゃないと思うぞ」
「そうかもしれないけどさ……」
 気落ちした様子で言う春原に、ニカッと笑って俺は告げた。
「いや、どうせお前がいたって役に立たなかっただろうしなっ」
 春原はがっくりと肩を落とした。
「……なんか、すっぱり言ってくれますねえっ」
「だって、お前そういうキャラじゃないだろ?」
「否定はしないけどさ、否定してくれよ!」
 調子が戻ってきた春原に、俺は表情を元に戻す。
「それにさ、あれは俺が自分で決着させなきゃいけないことだったんだと思う。だから、お前が気に病む必要なんかないぞ」
「……ああ」
 渚のことが好きだったからこそ、俺はあいつを失ったときに落ち込んだ。多くの人に心配をかけたのは申し訳ないし、汐にも辛い思いをさせてしまったけれど、きっと俺にはあの時間が必要だったのだろう。渚がもう俺の隣にいないということを受け入れる、その覚悟をするための時間が。
「……しかし、今日は久しぶりに楽しかったな」
 俺の言葉に、春原も頷く。
「そうだな。なんか、僕も学生時代に戻ったような気がした」
「きっと俺達は、何年経っても、何十年経ってもこんな感じなんだろうな。助けるとか助けられるとか、そんな堅っ苦しい関係じゃなくても、別にそれでいいんじゃないか?」
「……かもね」
 年を取ってお互い爺さんになっても、俺達は相変わらず顔を合わせれば馬鹿をやっているのだろう。そんな関係も悪くない。
 と、そのとき廊下の方からドタバタと足音が聞こえてきた。そして、いきなり客間のふすまが開かれる。
「岡崎さんっ!」
 そこには芽衣ちゃんが酷く興奮した様子で立っていた。その後ろに風子と、少し眠そうな目をした汐の姿もある。
「どうした、芽衣ちゃん?」
「こ、これっ。このCD、どうされたんですかっ」
 芽衣ちゃんが手にしていたのは、芳野さんの自主制作CD、『Love & Spanner』だった。渚が亡くなったとき、目にするのが辛いからと早苗さんに引き取ってもらったものだ。
「すっかり忘れてたな……。俺が以前勤めていた会社の先輩なんだよ、その芳野さんって。ついでに、風子の義理の兄でもある」
「はい、それは風子さんから聞きました。でも、芳野祐介さんがまたCDを出してたなんて、全然知らなかったです。風子さんもご存じないようでしたし」
 その言い方に俺は引っかかりを覚えた。
「あれ? 『また』ってことは、芽衣ちゃんは芳野さんが歌ってたのを知ってたのか?」
「それはもう、大ファンなんですっ」
 胸元で拳を作る芽衣ちゃん。CDケースが割れないか心配になるほどだ。
 そこに春原が口をはさんだ。
「ってゆーかさ、岡崎は知ってるはずだろ? 芽衣が作ってくれた芳野祐介のテープ、お前が駄目にしちゃったんだから」
「そう言えば、そんなこともあったっけ……」
 そのせいで、ギター云々の恥ずかしい演技に付き合わされることになったんだった。
「じゃあ、芽衣ちゃんは芳野さんの昔の話、知ってるんだな」
「あ……はい、一応。色々あって、マスメディアから姿を消してしまった辺りまでは」
 さすがに気落ちした様子で芽衣ちゃんが答える。最後は捕まってしまったらしいから、ファンとしては辛かっただろう。
「芳野さんはさ、何もかもなくした後にこの町に帰ってきて、好きだった先生と再会したんだ。それでようやく新しい支えを見つけたんだよ。で、その先生ってのがこいつの姉ちゃん」
 そう言って風子を指差す。
「そうだったんですか……。芳野さん、立ち直れたんですね」
 芽衣ちゃんはほっとした様子だった。
「ああ。で、その後は電気工になってこの町で働いてたんだ。
 俺は学校を卒業してから芳野さんの後輩として同じ会社に勤めることになったんだけど、ちょっとしたいきさつで芳野さんがまた歌えるよう渚と二人で応援することになってさ。それで芳野さんは自主制作でCDを出すことにしたんだ」
「じゃあ、このCDが……?」
「そう。ちょっと照れ臭いんだけど、このアルバムタイトルは俺のことを歌ってくれたものなんだ。渚のために頑張って働く姿を、芳野さんが歌にしてくれたんだよ。俺も渚も気に入って、二人で何度も聴いたっけ」
「そんなことがあったんですか。風子も知らなかったです」
 びっくりした様子で目を丸くする風子。そして、汐も尋ねてくる。
「これ、パパのうた?」
「一応な。どうだ、聴いてみたいか?」
 尋ねると、その場の全員が頷いた。早速、渚の部屋からCDプレイヤーを持ち出してきて曲を再生させる。夜なので、ボリュームは抑え目にして。
 そこには、愛する人のために額に汗して働く男の姿が歌われていた。繰り返し、渚と一緒に聴いた歌だった。
 渚はもういないけれど、あいつの生きた証しは確かにそこにあった――そして、俺の腕の中にも。俺の膝に座った汐は、真剣な表情で芳野さんの歌に聴き入っている。
 タイトルトラックが終わって、俺はCDを止めた。汐をあまり夜更かしさせるのは良くないだろうと思ったからだ。
「どうだった?」
 感想を尋ねると、芽衣ちゃんは深く溜め息をついた。
「とっても素敵でした。なんて言うか、視点がとても優しいんですよね」
「……パパ、かっこいい」
 汐もそう言ってくれる。
「そうだ。良かったら芽衣ちゃん、明日芳野さんに会いに行ってみるか?」
 俺の提案に芽衣ちゃんは一瞬顔を輝かせるが、すぐにその表情を陰らせた。
「そうしたいのはやまやまなんですけど、明日は朝一番で帰らなくっちゃいけないんです。それに、芳野さんも昔のファンに押しかけられたら迷惑かもしれませんし」
 確かに芳野さんにとっては辛い過去のことでもある。デリケートな問題かもしれない。
「じゃあ、代わりにこのCD、芽衣ちゃんにやるよ。持っていってくれ」
「ええっ。そんな、受け取れませんよ! だって、大切なものなんでしょう?」
「いいんだ。思い出はちゃんとここにしまってあるから」
 そう言って自分の胸を軽く叩く。
「それに、本人が近くにいるんだからいつだって借りられるし。なっ、春原」
「そうだな」
 春原は俺の台詞に苦笑する。俺達の間だけにしか通用しないネタだった。
「でも……」
 なおも渋る芽衣ちゃんを春原が諭す。
「いいから素直に貰っとけよ、芽衣。渚ちゃんだって、きっと喜んでくれるって」
「そうそう」
 ようやく芽衣ちゃんは頷いた。
「では、ありがたく受け取らせてもらいますね。大事にしますから」
「ああ」
 夜の鑑賞会はそれでお開きになった。芽衣ちゃん達は部屋に戻り、俺達も電気を消して眠ることにした。

 その晩は久しぶりに渚の出てくる夢を見た。
 俺と渚、そして春原が、一緒に学校生活を送っていた頃の夢だった。
 しかも、そこにはいなかったはずの風子の姿もあった。
 四人でひとかたまりになって、彫刻に関する何かをやっていたようだった。
 けれど、朝に目が覚めたとき、俺は夢の内容をほとんど忘れてしまっていた。
 それでも、騒がしくて、奇妙で、楽しくて、少し切ない物語だったことだけは微かに憶えている。

 翌朝、俺達は全員古河パンの店の前に集まっていた。
「本当に送っていかなくてもいいのか、芽衣ちゃん?」
 俺が尋ねると、芽衣ちゃんはにっこり笑って頷いた。
「はい。駅まで行って電車に乗るだけですから。それよりも、岡崎さん達は秋生さんと早苗さんのお手伝いをしてあげてください」
「芽衣はいい心がけだな。よし、小遣い百五円やろう」
 ポケットをごそごそと探るオッサン。半端と言うか、きりがいいと言うか……。
「いえ、いりません」
「なんだよ。素直に受け取っとけよ」
 即答する芽衣ちゃんに、オッサンがぼやいた。
「岡崎、世話になったな」
 袋を抱えた春原が俺に向かって言った。昼飯代わりにするようにと、オッサンと早苗さんが焼き立てのパンを袋に詰めて持たせたのだ。実のところ、その中には新作の『地雷』も含まれているのだけれど、春原はそれを知らない。芽衣ちゃんは気付いていたようなので、被害に遭うのは春原だけだろうが。
「ああ。またな、春原」
 汐が芽衣ちゃんのそばに寄ると、寂しそうな表情でその顔を見上げた。
「めいさん、もうかえっちゃう?」
 芽衣ちゃんはしゃがみ込み、汐を抱きしめる。
「名残惜しいけど、そろそろ戻らなきゃいけないの。でも、きっとまた近いうちに遊びに来るからね」
「……うん」
 風子も芽衣ちゃんに近づくと声をかけた。
「風子、とっても楽しかったです」
 芽衣ちゃんは立ち上がって、今度は風子の肩を抱いた。
「はい、わたしもです。風子さんや汐ちゃんとお友達になれてよかったと思います」
 この三人は短い間にすっかり意気投合したようだった。そうして仲良く別れを惜しんでいる姿が微笑ましい。
「おい、テントウムシ。てめえも芽衣と一緒に来いよ。次はオロ○ミンセーキよりすげえ奴考えておくから」
 オッサンが楽しそうに春原の肩を叩いた。
「ひっ。か、勘弁してください……」
 春原は思いっきりびびりまくっていた。早苗さんがオッサンをたしなめる。
「秋生さん、そんなことを言っては駄目ですよ。どうか、懲りずにまた来てくださいね、春原さん。朋也さんも喜びますから」
「はいっ。早苗さんのためなら、毎週だって来ますよ、僕っ」
 いきなり元気になる春原。あまりに単純過ぎる奴だった。
「じゃあ、そろそろ帰りますね。皆さん、お世話になりました」
 芽衣ちゃんが頭を下げた。
「さよならです、芽衣さん」
「……ばいばい」
「おう、じゃあな」
 挨拶を交わしてから、二人は駅の方へ向かって歩き出した。
 冬の朝日がきらめく中、春原と芽衣ちゃんの姿が遠ざかっていく。その背中に向かって――
「春原ーっ、別に用がなくても遊びに来ていいんだぞーっ」
 ――俺は叫んだ。二人の足が止まり、こちらを振り向く。
「だって、俺達はいつまでもダチなんだからなぁっ」
 普段はなかなか照れ臭くて言えないことだが、俺はそれを春原に伝えた。伝えなければいけないと、そう思ったからだ。
 遠目だけれど、春原が笑っているのが見えた。二人は何か喋っているようだけど、その声は聞こえない。でも、なんとなく想像はつく。春原は「恥ずかしい奴だな、あいつ」とか呟いて、それに対して芽衣ちゃんは「よかったね、おにいちゃん」なんて声をかけているのだろう。
 そして、春原は大きく、芽衣ちゃんは小さく手を振ってきた。俺もそれに対して手を振り返す。
 二人はまた歩き出し、そして角を曲がった。その姿が完全に見えなくなる。
「ふぅ……」
 溜め息をついて振り返ると、何故かみんなの顔が笑顔だった。汐も、風子も、オッサン達夫婦も。
「な、なんだよ?」
「馬鹿。てめえ、あんな風に叫んどいて今さら照れんなよ」
 オッサンはそう言うと、咥えていたタバコに火を点けた。
「一生もんの友達ってのはいいよな」
「ん……ああ」
 オッサンの言葉に俺は同意する。
「さあ、そろそろお客さんが来る頃ですから、仕事に戻りましょうか?」
 早苗さんがそう切り出した。
「んー、今はそういう気分じゃねえな。店の外でぼーっとひなたぼっこでもしていたい感じだ」
「そうですか。なら仕方ないですねっ」
「いや、仕方なくないっす。オッサン、ちゃんと働けっての」
「あっきー、がんばって」
「風子も手伝います」
「ほら、こいつらもそう言ってるからさ」
「ああ、分かった分かった。……ったく、おちおちサボれやしねえ」
 俺達はそんな風に騒ぎながら、店の中へ戻っていった。

続く

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