果てしなき河の先に
第三話・逢瀬の記憶
2004-07-28 by Manuke

 オッサンと早苗さんが帰ってしばらくした後、俺達が休憩を取っていると突然表の方から慌ただしい足音が響いてきた。そして、
〈ピポピポピポーン〉
 とチャイムが連打される。
「なんだ、一体……?」
 俺は立ち上がって、ドアのところまで近づいた。ロックを外し、ドアを開けて誰何しようとしたとき、一人の女性が玄関の中に飛び込んできた。
「なっ……。公子さん、どうしたんですか?」
 膝へ手を突いて息を切らせているのは公子さん、風子の姉だった。その右手には空色のボストンバッグを下げている。
「どうしたのか……はぁっ……聞きたいのは……わたしですっ……ぜぃっ……ふぅちゃんは……」
 息も絶え絶えの公子さんに、スプーンを持ったままの風子が言った。
「おねぇちゃん。任務、ご苦労様です」
 それを見た公子さんが、上がり口にへたり込む。
「ふぅちゃん……無事だったんだ……」
「いや、無事もなにも風子は昼前からウチへ遊びに来てたっすよ」
「えっ……?」
 俺は流しの前に足を運んでグラスに水を汲み、公子さんへ差し出した。
「公子さん、これ飲んで落ち着いてください」
「あ……ありがとう……ございます」
 公子さんは俺の手からグラスを受け取ると、一気にあおった。コクコクと喉を鳴らして水を飲み終えた公子さんは、深く息を吐いて呼吸を整える。
「ふぅ、やっと落ち着きました……。あっ」
 公子さんは小さく叫び、俺に頭を下げた。
「ごめんなさい。突然押しかけてきて、みっともないところを見せちゃいましたね。
 岡崎さん、お久しぶりです」
「あ……はい、久しぶりっす。汐、お前も挨拶しなさい」
 汐はスプーンを置くと、トコトコとこちらに歩いてきて、ぺこりとおじぎした。
「……こんにちは」
「こんにちは、汐ちゃん。お体の具合はどうですか?」
「げんき」
 汐が胸を張って答えると、公子さんはびっくりしたように俺に視線を向けた。
「さっき医者に診てもらったんですが、すっかり良くなったみたいです。二週間ほどで、また幼稚園にも通えるようになるって」
 俺の言葉を聞いて、公子さんの顔に安堵の笑みが浮かぶ。
「そうだったんですか……。良かったですね、汐ちゃん」
「うん」
 そして、汐を抱き寄せてその頭を優しく撫でた。
「ずっと汐ちゃんのことを案じてたんですよ。わたしも、祐くんも、ふぅちゃんも」
 改めて、たくさんの人達に心配を掛けていたことに気付かされる。
「芳野さんにも、汐が元気になったことを伝えてもらえますか?」
「はい。きっと祐くんも喜びます。祐くんにとって、岡崎さんは弟みたいなものですから」
 そんな風に言われると、ちょっと恥ずかしいけれど、嬉しい。俺にとっての芳野さんは、尊敬する先輩というだけでなく、心酔するミュージシャンでもあるのだから。
「公子さん。こんな玄関先で話すのもなんですから、どうぞ上がってってください」
「ありがとうございます。それではお邪魔させていただきますね」
 俺が促すと、公子さんは頷いて靴を脱いだ。そして汐と手を繋いだままちゃぶ台の前まで行き、風子の隣に座る。
「……で、ふぅちゃんはどうして、当たり前のように岡崎さん家でプリンを食べてるの?」
 咥えていたスプーンを口から放して、風子は不思議そうに首を傾げた。
「わけわからないことを言いますね、おねぇちゃん。プリンがそこにあったら、食べるのは人としての礼儀です」
「そんな礼儀、聞いたことねえ……」
 俺も汐のとなりに腰を降ろしながら、風子に軽く突っ込む。
 風子が食べているのはカスタードプリン、汐のはイチゴゼリーだ。熱で食欲がないときのために、冷たくて喉を通りやすいものが冷蔵庫に常備してある。汐が回復して昼食もしっかり食べることができたため、今日はそれをおやつ代わりにしたのだった。
 風子は俺の言葉に、すました顔で反論してきた。
「それは岡崎さんが礼儀知らずだからです」
「まあ、それは否定しないけどな」
 俺は肩を竦める。公子さんが軽く溜め息をついた。
「まったく、ふぅちゃんは……。朝も突然いなくなっちゃって、お姉ちゃん心配したんだよ? さっきはさっきで、突然変な電話をかけてくるし」
「電話?」
 俺の疑問に、隣に座っていた汐が答えた。
「パパがそとにいたとき、ふーこさんがでんわしてた」
 そう言って、スプーンですくい上げたゼリーを口元に運ぶ。まだ力が入らないのか、スプーンの上の赤く透き通ったゼリーはプルプルと震えていたが、どうにか落とすこともなく汐はパクッとそれを口に含んだ。
「ああ、着替えの件っすか」
「はい。ですがその内容が変わっていて……。なんでも、今すぐ着替え一式を岡崎さんの家へ持ってきてくれないと、ふぅちゃんの貞操が危ないとかなんとか」
 ぐらりと体が傾いた拍子に、俺は箪笥の角へ頭をぶつけてしまう。
「つつっ……。風子っ、お前なんてことを言いやがる!」
「風子、嘘は言ってないです。お風呂を頂いたあと着替えるものがなかったら、風子はバスタオルのまま寝る羽目になります。さすがに子犬のような岡崎さんにも、風子のせくしーな寝姿は刺激が強過ぎるはずです」
 風子の台詞に、今度は公子さんが首を傾げた。
「子犬?」
「あっきーがいってた。パパはママとけっこんするまで……むぐ」
 言いかけた汐の口を、慌てて塞ぐ俺。さすがに意味までは理解していないだろうが、汐は本当に頭がいい――と、こんなときまで思ってしまう俺は親馬鹿だろうか。
(その話は秘密にしといてくれ、頼むっ)
 汐にだけ聞こえるよう囁くと、俺の手を逃れた汐は同じように小声で言った。
(……はんばーぐ)
 すかさず交換条件を持ち出してくるとは、さすが我が娘にしてオッサンの直弟子。幼稚園児とは思えないキレの良さだ。
(だけどお前、熱が下がったばかりだろ。あんなこってりしたもの食えるのか?)
(たべれる)
(よし、それなら今夜はハンバーグにしよう。取り引き成立だな)
 コクリ、と汐が頷く。
「……?」
「あはは……なんでもないっすよ」
 疑問符を頭の上に浮かべたままの公子さんを、俺は笑って誤魔化す。
「そうですか……。それはともかく、ふぅちゃん、つまり今日は岡崎さんの家へ泊めてもらうってことなのかな?」
「風子、最初からそう言ってます」
「一言も聞いてません」
「それはきっと、おねぇちゃんの察しが悪いからです」
 かなり微妙なやりとりをしている公子・風子姉妹。
「俺はあんまり賛成できないんだけど、汐は風子に泊まっていって欲しいようだし、さっきまでいたオッサンと早苗さんは無条件で賛成してたし……。で、結局押し切られちゃいました」
「いえ、構わないと思いますよ。ふぅちゃんも岡崎さんも立派な大人なんですから、二人が決めたことに口出ししたりしません」
 とても理解がある公子さんだったが、それはそれで含みを感じてしまうのは俺が気にし過ぎだからだろうか。
 と、そこで公子さんはすまなそうな表情になり、頭を下げた。
「岡崎さん、本当にごめんなさい。さっきは岡崎さんとふぅちゃんの間に何かあったのかと勘違いしてしまいました」
「あ、いや。仕方ないっすよ、そんな電話があったんじゃ」
「でも、ふぅちゃんの口調に慌てた感じはありませんでしたし、常日ごろの言動から考えても、ふぅちゃんの電話の方を疑うべきでした」
 そこへ風子が不服そうに口を挟む。
「実の妹より岡崎さんの言葉を信用するなんて酷いですっ。風子、おねぇちゃんをそんな姉に育てた覚えはありません」
「お姉ちゃん、そもそもふぅちゃんに育てられたわけじゃないんだけど……」
「甘いです。山葉堂の練乳蜂蜜ワッフルよりも甘々ですっ」
 風子は、ずびしっと効果音が聞こえそうな勢いで公子さんを指差した。
「風子が生まれる前、おねぇちゃんは一人っ子でした。つまり、風子が産まれたことで初めておねぇちゃんは姉になれたんです。これは風子が育てたと言っても過言ではないでしょう」
「いや、絶対過言だって……」
 俺のツッコミは馬耳東風とばかりに聞き流される。
「そして、おねぇちゃんが『優しいお姉さん』というスキルを使ってユウスケさんと仲良くなれたのも、風子のおかげと言わなければなりません。その妹を差し置いて岡崎さんの方を信じるなんて、おねぇちゃんは姉失格ですっ」
 もはや意味不明になりつつあるが、要するにこいつはヤキモチを妬いているんだろう。公子さんが風子より俺の方を信じるのが気に入らないのだ、きっと。
「それってもしかして、お姉ちゃんにはほかに取り柄がないってこと?」
「そんなことはないです。ほかにもあります」
「例えば、どんな?」
「んー、美人女教師とかです」
「なんか、変な方向に向かってる気がするんだけど……。それにお姉ちゃん、もう先生じゃないんだよ?」
「そうすると、ただの美人になっちゃいます。ちょっと押しが弱いかもしれません」
 どんどん脱線していく姉妹トーク。
「……すごい」
 汐が目を丸くして、ぽつりと感想を漏らした。
「ああ。噛み合ってるのか合ってないのかさっぱり分からんけど、息はぴったりだ」
「べんきょうになる」
「いや……あれを手本にするのは正直どうかと思うぞ……」
 俺達親子がひそひそ会話している間にも、公子さんは話の筋を元に戻そうとする。
「とにかく、ふぅちゃんがはっきり『岡崎さんの家に泊まる』って言わないのがいけないんじゃないかな。そう聞いていれば、お姉ちゃんも誤解しなかったのに」
「そんなことありません。風子の発言はいつも簡潔明瞭だとご近所でも評判です」
「ふぅちゃんの言葉は、きっと自分で思っているよりも伝わってないよ?」
「おねぇちゃんがえっちな想像をするのがいけないんです」
「それはふぅちゃんが『貞操の危機』なんて言い出すからだと思うけど」
「純然たる事実だから問題ありません」
「そんなこと言っちゃ、岡崎さんに失礼でしょ」
「風子、子犬も野獣には違いないと思います」
「また子犬? なんの話?」
 さっき回避したはずの恥ずかしい話題に、またもや二人が近づいていた。
 風子には多分取り引きは通用しないだろうが、とりあえず汐に提示した条件を風子にも振ってみる。
「あー、風子。今日の晩飯はハンバーグにしようかと思うんだが、どうかな?」
 とたんに、きらきらと目を輝かせて俺の方を振り向く風子。食べ物で簡単に釣れるとは、くみし易いというか……。
「風子、ハンバーグ大好きですっ。もしかして、冷めない鉄製のお皿で出てきますか?」
「いや、さすがにそれはない。第一、汐がやけどしたらいけないからな。普通の皿で我慢してくれ」
「仕方ありません。分かりました」
 ちょっぴり残念そうではあったが、それでも風子はニコニコ顔だった。
「汐ちゃん、今日はハンバーグだそうですっ。汐ちゃんはハンバーグ、好きですか?」
「だいすき」
「じゃあ、風子と一緒ですねっ」
「うん。いっしょ」
 風子と汐が手を取り合って喜んでいる。そうしていると、ちょっと年の離れた姉妹のようで、なんとも微笑ましかった。
「ふぅちゃんてば……。こんな子ですけど、どうか仲良くしてあげてくださいね、岡崎さん」
 公子さんは小さく溜め息をついた後、苦笑しながら俺に言った。
「いや、俺も汐も風子のことは結構気に入ってますよ。ちょっと変わった奴だとは思いますけど、そんなところも含めて」
「そうですか」
 嬉しそうに頷く公子さん。
 その傍らで、風子はプリンの入ったカップを持ち上げ、汐に見せていた。
「ところで汐ちゃん。このカラメルソースのところと汐ちゃんのゼリー、一口づつ交換しませんか?」
「……にがいからいらない」
 味覚はほとんど同レベルのようだった。
「じゃあ、カスタードのところならどうですか?」
「うん」
「では、交換しましょう」
 そして、風子と汐は互いのおやつを交換する。
「んー、甘酸っぱいイチゴの香りが口の中に広がりますっ。
 それでは汐ちゃん、お返しに……あーん。どうですか?」
「あまくておいしい」
「それは良かったですっ」
 一見すると自分自身がガキっぽいし、事実そうなんだろうけど、風子は子供の面倒を見るのが上手いようだ。いや、むしろ子供の目線に近いからこそ、なのだろうか。意外ではあるが、こいつは母親に向いているのかもしれない。
「……ところで、岡崎さん」
 ふいに、公子さんが俺に話しかけてきた。
「あ、はい」
「つかぬことをお聞きしたいんですけど、いいでしょうか」
 と、シリアスな表情で俺に尋ねる。風子に関することだろうか。
「ええ、構わないっすよ」
 公子さんはそれを聞くと、にぱっと笑顔になった。
「子犬って、なんのことですか?」
「……」
 ごまかしは失敗に終わったようだった。

 その後しばらく世間話をしたのち、公子さんは帰っていった。
 ちなみに、内緒にしておきたかった話は、結局風子によってすっかりバラされてしまった。公子さんはあまり口が軽い方には見えないから大丈夫だとは思ったものの、俺はくれぐれも芳野さんにだけは言わないでほしいと頼み込んでおいた。
 何しろ恥ずかしいし、まかり間違って歌にでも歌われようものなら表を歩けなくなってしまう。芳野さんの好みそうなネタだけに、充分ありうることだ。
 そして、絵本を汐に読んでやったり、一緒にテレビを見たりしているうちに、日が傾いてくる。風子が汐と二人で留守番をしてくれるというので、俺は一人で夕飯の買い出しへ行くことにした。
 夕暮れの光で外は赤く染まっていた。次第に冷え込んでいく大気の中、俺はポケットに手を突っ込んでスーパーへと急ぐ。
 この寒空の下で絶望に駆られていたのは、ほんの半日前のことだったはずだ。それが今はどうだろう。全てはあの、少し風変わりな少女のおかげだった。
 スーパーに入ると早速、合い挽きの挽き肉その他、夕飯の材料を買い求める。レジで支払いを済ませて、すぐに家路へ着いた。
 鍵を開け、「ただいま」と告げながらドアを開くと、中から「おかえりなさい」という返事が二つ。体は短い外出の間にすっかり冷えていたけれど、心はその声でほんのりと温かくなった。
「ふぅ……。喧嘩とかしてなかったか?」
「してない。なかよしだから」
「風子、大人の女性ですからそんなことしません。ところで岡崎さん、ちゃんとハンバーグの材料は買ってきましたか?」
「ああ。挽き肉に玉ねぎ、卵……と。パン粉はオッサンにもらった奴がまだ残ってるはずだ。あとはおかずになりそうなものを幾つか」
「完璧ですっ。岡崎さん、ぜひ風子に夕食を作らせてくださいっ」
「でもお前、昼飯も作っただろ? 今度は俺がやるって」
「いえ。風子、料理は好きです。風子が持つ26の秘密能力のひとつですから」
「V3かよ……。まあ、作りたいんなら構わないけど」
「おまかせくださいっ。汐ちゃんもそれでいいですか?」
「うん。たのしみ」
「はい、頑張って作りますっ」
 そんなやりとりの結果、夕飯も風子が作ることになった。
 料理しているところを見ていてすぐに気付いたのだが、風子はとても手際が悪かった。複数の料理を作る場合、調理は並行作業になる。その配分がうまくできていないようだ。しかも、いちいち分量を計ってからでないと作れない。
 この辺りは、純粋に経験が足りないためだろう。個々の技術、例えば包丁さばきなんかはかなりのものなのに、全体としてわたわたしている印象だった。
 日々の炊事ってのはもっと、目分量と味見で済ませたりと、手の抜きどころが重要だ――などと偉そうに言えるほど俺もエキスパートではないが。いずれにせよ口出しすると風子が怒るので、俺は少しはらはらしながらもその料理風景を黙って見守る。
 七時半を回ってから、ようやく夕飯が出来上がった。
「お待たせしましたっ。ハンバーグの完成ですっ」
「……」
「おいしそう」
 予想通り、ハンバーグはヒトデの形をしていた。付け合わせの人参のグラッセまでヒトデ――と言うか、これは多分昼飯のときの残りだろう。あとはえのき茸の味噌汁と、あっさりした白菜の浅漬け。
 三人揃って「いただきます」と声を合わせ、食べ始めた。見た目はアレなものの、味に関しては文句なし。同じ材料なのに、俺が作るよりずっと美味い。
 風子はハンバーグを小さく切り分けたり、まだ熱い味噌汁をふぅふぅと冷ましたりと、甲斐甲斐しく汐の世話をしていた。そのせいもあって、汐は終始笑顔だった。俺が「将来、いい嫁さんになれるぞ」と言ってやると、風子は真っ赤な顔でしきりに照れていたが。
 食事を終えた後の洗い物は俺がやることにした。本来客であるはずの風子に何もかも任せてしまうのは申し訳ないからだ。フライパンや食器類を俺が洗っている間にも、風子は汐と一緒にテレビを見て、ブラウン管に映し出される映像に二人で一喜一憂していた。
 そんなこんなで、岡崎家+1の夜は更けていく。そして……

 ……そして、俺は落ち着かない気持ちで座っていた。
 なんとなしにテレビのチャンネルを変えてみるが、特に興味を引くような番組はやってない。新聞を手にとって普段読まない経済欄にまで目を通してみるが、当然頭には入らなかった。
 部屋の片方には、かつて同棲を始めたときのようにカーテンが吊るされている。その向こう、風呂場の中から二人分の楽しそうな声が聞こえてきた。
 どうにもまずいんじゃないかという感が否めない。
 渚のときはお互い恋人同士であり、同意の上で暮らしていたのだから問題はなかった――やせ我慢をしていたのは俺のこだわりだったのだから。
 しかし、風子は親しい友人ではあるものの、特にそういう関係というわけでもない。これは世間的にかなりまずいのではないだろうか。
 また風呂の方から、汐の笑い声が聞こえてきた。長いこと体を拭くだけで湯船に浸かることができなかった汐は、久々の入浴を楽しんでいるようだ。汐はまだ自分で頭を洗うことはできないから、シャンプーハットを被らせて風子が手伝ってやっているのだろう……。
(……いかん、想像するんじゃない! 相手は風子だぞっ)
 しかし、子供っぽいのは外見だけで、実際のところ風子は俺と同い年だ――到底二十代半ばに見えないのは事実だが。とても居心地が悪い状態だった。
 いっそ外にでも出ていようかと思ったのだけれど、俺は生憎と先に風呂を済ませてしまっていた。風呂上がりで外をうろついていたら、この寒さではたちまち湯冷めしてしまうこと請け合いだ。
 俺が風呂に入っている間、風子はやっぱり居心地が悪かったのだろうか、などとアホなことを考えつつ、ちっとも頭に入らない新聞の文字を目で追う。
 やがてドアが開く音がして、二人が風呂から上がったのが分かった。
「さあ、汐ちゃん。風邪を引かないようにしっかり拭きましょう」
「うん」
 余計なことを考えないよう、俺は新聞に顔を近づけた。
(えーと……なになに? 日経平均株価は一万飛んで七百七十七円――こりゃ景気のいい数字だな。デフレ恐るるに足りずっ)
 何が言いたいのか自分でも良く分からない。
 そのうちに、汐がカーテンをくぐって俺の元までやってきた。
「おふろおわった」
「そうか。じゃ、髪の毛乾かさないとな」
「うん」
 頷いた汐は、俺の顔を覗き込んで首を傾げた。
「パパ、あかくなってる」
「ちょっとデフレスパイラルの解消方法について思いをめぐらせていたんだ」
「……?」
「いや、なんでもない」
 ドライヤーをつけて、吹き出す風を汐の髪に当てる。
「久しぶりの風呂はどうだった?」
「きもちよかった」
 汐は目をつぶってじっとしている。俺は熱くならないよう注意しながら、ブラシで汐の頭を梳く。
「岡崎さん、風子も上がりました」
 カーテンを引く音がして、背後から風子の声が届いた。
「ああ、ご苦労さん。汐の面倒見てくれてありがとな」
「いえ。風子も楽しかったです」
 汐の髪は短く、髪質も細いので、まもなくすっかり乾いた。俺はドライヤーのスイッチを切る。
「よし、終わったぞ。風子、お前もドライヤー……」
 振り返って風子にドライヤーを渡そうとして、俺はドキリとした。
 ピンクのパジャマを着た風子は、何やらボストンバッグをごそごそと探っている。その頭にはタオルが巻かれ、普段は長い髪に隠れている白いうなじがあらわになっていた。
 いつもはまるっきり子供のようだが、その横顔は不思議と年相応に見えて、俺はしばし風子に見とれてしまう。
「岡崎さん、何ですか……痛っ!」
 俺の言葉が途切れたのを怪訝に思ったのか、こちらに注意を移した直後に風子は小さな悲鳴を上げた。俺は我に返り、風子の側に近寄った。汐もそばにやってくる。
「風子、どうかしたのか?」
「あ、いえ……ちょっと針を刺しちゃいました」
 ボストンバッグの横に裁縫セットが転がっていた。どうやらそれを取り出そうとして針を指に刺してしまったらしい。
「ちがでてる……」
 汐の言う通り、風子の人差し指には小さな血の玉が浮いていた。
「わりぃ……俺が気を逸らしちまったからだな」
「いえ、風子の不注意です。大した怪我でもありませんし」
 そう言って、ぱくりと指先を咥える風子。
「駄目だって。ちょっと待ってろ」
 俺は立ち上がり、箪笥の上から救急箱を降ろした。中から消毒液と絆創膏を取り出す。
「ほら。指出せ、指」
「分かりました」
 風子は大人しく俺に右手を差し出した。
 ふと、またその光景に見覚えがあるような気がした。けれどもそれは、デジャヴとは少し違う。かつて風子が怪我をしたときには、『あなたには関係ない』と邪険に言われたような、そんな気がするのだ。
 もちろん、そんなことはあり得ない。風子と知り合ってからまだ一年も経っておらず、その間に風子が怪我をしたという記憶もなかった。俺は妄想を振り払う。
「じゃ、消毒液をかけるぞ。しみるかもしれないが我慢しろよ」
「……」
 ぎゅっと強く目を閉じる風子。俺はその指先に消毒液を吹きつけてから、傷口以外の部分をティッシュで拭き取り、絆創膏をくるりと巻きつけた。
「終わったぞ、風子」
 まだ目をつぶったままの風子に俺は声をかける。
「あ、はい」
 怖々と目を開けた風子は、指先に絆創膏が巻き終わっているのを見てほっとしたようだ。そんな仕草はやっぱり子供っぽい。
「でも、なんで裁縫道具なんか使おうとしてたんだ?」
 俺が問いかけると、風子は傍らにあった汐のパジャマを取り上げた。
「汐ちゃんが前に着ていたパジャマ、ここのボタンが取れかかってたんです」
「ああ、そういうことか。そんなの、言ってくれれば俺がやったのに。ついでだから、ちょっとこの裁縫セット借りるぞ」
「あっ……」
 俺は風子の裁縫セットから針と糸を取り出すと、ささっとボタン付けを済ませてしまう。
「風子が付けたかったんですけど……でも、岡崎さんの方が風子より上手です」
 ちょっと悔しそうに風子が呟く。
「じゃあ、今度繕い物があったときは頼むな」
 俺の言葉に、風子の表情が明るくなった。
「はい、任せてくださいっ」
 風子の笑顔は、少女のような、それでいて大人びた女性のような、不思議な魅力を放っている。それが風子という存在なのかもしれない、俺にはなんとなくそう感じられた。

 暗闇の中、俺は天井を見上げている。
 汐は俺の隣で、すやすやと寝息を立てていた。その向こう、少し離れた位置に風子が寝ているはずだ。
 汐は苦しそうな様子もなく、ぐっすり寝ているようだ。俺はそれを確かめると、汐を起こさないように小さく声を出した。
「なあ、風子……起きてるか?」
 少し間を置いて、答えが返ってきた。
「――風子、もう眠ってしまいました」
「じゃあ、それは寝言なのか」
「はい。寝言です」
 思わず頬が緩む。
「なら、きっと俺の言葉も寝言なんだろう。そう思ってくれ」
「分かりました」
 目を閉じると、暗がりの中うっすらと浮かんでいた蛍光灯の傘は見えなくなる。俺は深い呼吸をした後、切り出した。
「なんかな、お前に以前会ったことがあるような気がするんだ」
「……」
 相槌を待たずに、俺は続ける。
「はっきりとは分からないけど、多分高校に通っていた頃だと思う。あの校舎の中、制服を着た風子と言葉を交わした、そんな気がする。
 けど、そんなはずはないよな。お前はずっと入院してたんだから。一年のときに事故に遭って、お前はあの学校に通うことができなかった。だから、俺達が出会っているはずはないんだ」
 俺は否定の言葉を口にしているはずなのに、確信はますます強まっていく。
「なんだろうな、この曖昧な思い出は。どうして俺は、あり得ないはずの記憶を持っているんだろう……」
 俺が口を閉ざすと、長い沈黙が訪れた。静かな部屋の中、冷蔵庫のコンプレッサーが立てる小さな音だけが聞こえてくる。
 本当に寝てしまったのかと俺が思ったとき、ようやく風子の声が届いた。
「もし、風子と岡崎さんが出会っていたとしたら、どうしますか?」
「そうだな、別にどうということもないけど、ただ……」
「ただ?」
「また会えてよかったとは思う」
「……そうですか」
 風子は少し掠れたような声で呟く。
「だけど、もしお前みたいに変わった奴と会ったことがあるんなら、はっきりと記憶に残ってそうなものだけどな」
 俺は少しからかうような調子でそう言った。
「それはきっと、夢だからです」
「夢?」
「はい。夢だから、目が覚めたときには忘れてしまうんです」
 それは、出会ったという記憶が、だろうか。あるいは……。
 どんな表情でその言葉を紡いだのか知りたくて、俺は目を開いて風子のいるあたりへ視線を向ける。けれど、暗闇の中で風子の顔は見えなかった。
「風子、寝ます」
「……もう眠ってたんじゃなかったのか?」
「そうですけど、もっと深い眠りに就くんです。寝言も言わないくらいに」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
 俺達は『寝言』で挨拶を交わし、また目を閉じた。
 風子が言った意味は、俺にはよく分からなかった。けれど、風子と俺の間には何か不思議な繋がりがあったのだと確信する。それが何故か、俺には温かく感じられるのだった。
 そして、俺はゆっくりとまどろみの中に引き込まれていった――安らかで心地よい夢の中へと。

続く

前へ   次へ