(3/4)

 一日の仕事を終えて、食事と風呂を済ませた俺は、昨日の疲れが出たと言って早々に部屋へ戻った。それから身支度を済ませ、気付かれないようにそっとペンションを抜け出した。
 そして俺は上坂さんの家に向かう。幾度か通った道だけれど、考えてみるとこの世界では一度も来たことがない。
 記憶が二重にあるというのは少々厄介だ。例えば、この世界での俺は上坂さんのお父さんと面識がない。そこをうっかり忘れてしまうと面倒なことになるだろう。こっちは知っていても、向こうは知らないのだから。
 家の前まで来ると、その門の外に上坂さんの姿があった。
「遅くなってこめん」
 俺が謝ると、上坂さんは、
「いえ、私も今来たところですから」
 と、まるでデートの待ち合わせか何かのように言って、微笑んだ。
 俺はそんな上坂さんに手を差し延べる。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
 掴んだ手は小さく、ほっそりとしていて、そして微かに震えていた。覚悟を決めたとはいえ、不安に思うのは当然だろう。俺だってそうなのだから。
 二人は手を繋いだまま、夜道を歩き始める――言葉を交わすこともなく。それでも、上坂さんが隣にいてくれる、ただそれだけで心が満たされるのを感じる。だから、自分の選択がこれまでの人生と決別するものであったとしても、後悔はない。
 やがて、俺達は神社まで辿り着いた。
「これからどうしようか?」
 俺が尋ねると、上坂さんは奥の方を指差した。
「向こうに扉のところまで続く小道があります。今の時間なら、おそらく京極さんは扉の奥にいらっしゃるでしょうから」
「分かった」
 神社の人に見つからないよう気を付けながら、茂みの中に伸びる踏みならされた小道を通って、扉のある場所へと向かう。
 そして程なく、俺達は岩に嵌め込まれた扉のある場所へ到着した。ちょうどそのとき、扉が開いて中から人影が姿を現す。
「気を付けて……」
 和服姿の京極さんと、その手を引く足利さんだ。いいタイミングだったようだ。
 次の瞬間、足利さんがこちらに気付いた。
「……!」
 その表情が瞬時に険しくなる。足利さんの機先を制するように、上坂さんが声を上げた。
「待ってください! 私達は怪しい者じゃありません」
 しかし、その言葉では足利さんを止められない。
「君はここで待て」
「えっ……?」
 何が起きているのか分からないのだろう京極さんに言い含めると、足利さんの姿がザッと視界から消えた。恐るべき敏捷さだ。
 俺も上坂さんに続いて叫ぶ。
「俺達は知っているんですっ。京極さんとシステムのことを!」
「何っ?」
 その台詞は、俺の真横から聞こえた。危うくまた関節を極められ、組み伏せられる寸前だったようだ。
「お前ら……朝倉壮太と上坂茅羽耶か。何故それを知っている?」
 どうやら、取りあえず話だけは聞いてもらえるらしい。ほっと息をつき、足利さんと京極さんに向けて簡単な説明をする。
「俺と上坂さんは、こことは違う選択を選んだ世界の記憶を持っています。俺達はその世界でのあなた達二人に、塔弦島に隠されたシステムと、それにまつわる事柄を教えてもらったんです」
「別の世界の……私達?」
 いつも冷静かつ穏やかだった京極さんが、驚きに目を丸くしている。足利さんですら、言葉の意味を図りかねて眉を寄せていた。
 二人には悪いが、少しばかり溜飲の下がる思いがしたのは否定できなかった。

 京極さんの部屋に通された俺達は、話を分かりやすくするために、まずはこの時間軸で起きたことを説明することにした。
 四ヶ月前、上坂さんが俺そっくりの人間に助けられたこと。俺がこの島へ来た後、みんなで考えた推論。祭りのときにふと浮かんだ、存在しないはずの記憶。そして、今朝起きたこと。それらを二人で交互に補足し、あらましを伝える。
「なるほど……。お二人が強く願ったことで、システムがそれを叶えたのですね」
 京極さんは話を聞き終えると、大きく頷きながらそう言った。
「八月に起きた事故のことについては、こちらでも把握している。六角五郎が見たという友人が、その時間帯には本土にいたという裏付けも取ってあった。しかしまさか、それが事の真相だったとはな……」
 と、足利さん。俺のことまで調べられていたと聞かされると、さすがに少し居心地が悪い。
「それで、朝倉さん達が得た別の世界の記憶は、どんな内容なのでしょう?」
「ええとですね……」
 一つ目の記憶に関しては、もっぱら俺が説明することになった。永遠に繰り返される三日間を過ごしていた上坂さんには、時系列の把握が難しかったためだ。同じシーンを繰り返し撮影した映画のフィルムの断片のように、前後の繋がりがないために順序が分からないのである。
 考えてみれば、連続する記憶を持つ普通の人間ですら、記憶した日時を取り違えることは珍しくない。上坂さんの場合、お父さんが日付を隠そうとしたことも手伝って、余計に分かりにくいのだろう。
 そしてもちろん、過去――今いるこの世界に俺が投影された部分に関しては、俺だけが知ることだった。
「……そうやって上坂さんを助けた後、俺の意識は遠のいていきました。俺が覚えているのはここまでです」
 俺が一通り話し終えたとき、足利さんは難しい顔をして呟いた。
「……タイムマシンか。もしかしたら、それがシステムの正体なのか?」
「それは、どういうことです?」
 俺が尋ねると、足利さんは自分の失言を悔やむように顔を歪めた。
「お前には関係のないことだ」
「足利さん。ここに至って、それはありませんよ」
 京極さんがやんわりとたしなめる。
「お二人にも教えてあげてください。私も聞きたいですし」
 足利さんは小さくため息をつき、それから話し始めた。
「……これは何の根拠もない、ただの憶測だ。それは承知しておけ。
 お前らは、システムが二つの要素からなることを知っているか?」
「いえ……」
 俺は知らなかったので、首を横に振った。
「私は聞いています。“願いを届ける機械”と“願いを叶える機械”ですね」
 上坂さんはそう答える。おそらく、もう一つの世界で誰かから聞いたのだろう。
「そうだ。このうち、“願いを届ける機械”というのは非常に小さく、人間の体内に侵入してその思念を読み取るらしい。おそらくナノマシンと呼ばれる小さな機械で、今の技術では無理だが、いずれ人間にも作れるようになると言われている。
 だが、“願いを叶える機械”とは何だ? 人間の望みを“願いを届ける機械”が読み取った後、それをどうやって実現する? 例えば、空想上の怪物を召喚するといった無茶な願いを。常識的に言って、そんなことは不可能だ。それを説明できるのは、科学ではなくオカルトの領域になってしまう」
 八年前のあの事件のことを言っているのだろう。足利さんは俺に一瞥をくれ、先を続けた。
「だがな、もし過去に干渉する能力をシステムが持っているのだとしたら、話は違ってくる。システムは未来の自分から、願いを叶える方法を聞けばいい。それを実行してから、過去の自分にその方法を伝えてやれば、辻褄は合う」
 俺はそれを聞き、思わず唖然としてしまった。
「なっ……。そんな馬鹿な話はありませんよ! じゃあ、その願いを叶える方法は誰が最初に発見したんです?」
 足利さんは俺の疑問を一刀の下に切り捨てた。
「お前は勘違いをしている。時間の外側に時間はないから、『最初』という概念も存在しない。タイムマシンの存在を肯定した時点で、因果律は崩れてしまったんだと理解しておけ。タイムマシンってのは、それほど常識外れな代物だ。
 これは何も、俺がこの場で考え出したことじゃあない。ある学者が論文で言ったことだ。タイムマシンが実在すれば、コンピュータは難問を一度も演算することなく答えを引き出せる、とな」
「……本当に、それがシステムの正体だと?」
 かなり疑わしそうな表情で上坂さんが尋ねると、足利さんはあっさりと否定した。
「いや。そんなに簡単なものだとは俺も思っちゃいない。方法だけは仮に分かったとしても、それをどう実行するかは不明だからな。
 重要なのは、これまでオカルトとしか思えなかったシステムの正体が、現代物理学で説明の付くものである可能性が出てきたことだ。そうだとすれば、あの男の言いなりになる必要もなくなる」
 足利さんはそこで言葉を切った。話は終わりだということらしい。
 最後の『あの男』が誰なのかは分からなかったが、多分それは京極さんに向けて言ったことなのだろう。京極さんはそれを聞いて少し考え込んでいたようだったが、すぐにまた俺達の方へその顔を向けた。
「お二人の事情は一通りお聞きしました。ですが、まだ肝心なことを伺っていません。
 あなた達は、どうしてこの場所へ来られたのですか? ただ状況を説明しに来たのではありませんね。目は見えずとも、朝倉さんと上坂さんが何か覚悟を決めていることぐらいは分かります」
 上坂さんがそれに答える。
「実は、私にはもう一つ別の世界の記憶があるんです。この記憶を持っているのは私だけで、朝倉さんにはありません。私にとっても、おぼろげなものですけど」
「もう一つ? それはやはり、お前がシステムに投影されていた世界なのか?」
 足利さんの問いに、上坂さんは首肯した。
「はい。実のところ、最後に朝倉さんとお別れした部分以外は同じですね。だから記憶が混線してしまったのかもしれません。
 その世界では、朝倉さんは私の消滅を看取った後、ここへ来たそうです。そして京極さんに、私を蘇らせる方法があるかもしれないと聞かされました」
「私に……?」
 京極さんは少し驚き、それからすぐに得心がいったようだった。
「――ああ、分かりました。あなたを巫女として再生させるということですね」
「ええ、そうです」
 そのやり取りに、普段は感情をあらわにしない足利さんが顔色を変えた。
「ちょっと待て! それは、どういう意味だ?」
「難しいことじゃないですよ。これまで巫女を生み出すことができなかったのは、データを入力する方法がなかったからですよね。私が投影されたということは、システムの中に私を構成するために必要なデータが揃っていることを意味します。向こうの世界の京極さんはそれに賭け、そして成功しました」
 この辺りの事情は、俺が知らない部分だった。俺にはそちらの世界の記憶がない。巫女の再生に関しては、むしろ京極さんと足利さんの方が熟知しているだろう。
「……それで、その後はどうなったのでしょう?」
 あらかた予想しているのか、京極さんが沈んだ表情で尋ねる。
「代替わりさせてもらって、私がこの島の巫女になりました。京極さんにも足利さんにも反対されましたけど、自分で言うのもなんですが強情な質なので。
 それから、私はこの神社で一人っきりで生活するようになりました。でも、朝倉さんや父と母が通ってくれたので、寂しくはありませんでしたけど。そこから先は、記憶がぼやけてしまっていて分かりません」
「そうですか……」
 上坂さんの明るい表情とは裏腹に、悲痛な面持ちの京極さん。
「別に、辛いことは一つもありませんでしたよ。元々私は体が弱くて、ほとんど外に出られませんでしたから、この島の巫女みたいなインドアの職種って結構適職だったんじゃないかと。日焼けの心配もありませんしね」
「……」
 上坂さんの言葉を聞いて、足利さんと京極さんの表情が微妙なものに変化する。
「あれ? 自分では面白いこと言ったつもりだったのに」
「だから、そういう自虐的な冗談は笑えないよ」
 呆れた声で俺が突っ込むと、上坂さんは「やっぱりお笑いの道は険しいですね」と言って苦笑した。
「では、上坂さんがここを訪れたのは……」
 京極さんの言葉を、上坂さんが肯定する。
「はい、また巫女の座を引き継ぐために来ました。もう一つの世界の話ではありますけど、私は経験者ですから問題はないはずです」
「いけません! 上坂さんには普通の人間として生きる道があります。それを捨てさせ、あなた一人に私の重荷を背負わせるわけには……」
「違うんです。京極さん」
 上坂さんを諫めようとする京極さんの言葉を、俺は遮った。
「一人、じゃないです。俺もシステムによって過去へ投影された人間ですから」
「……!」
 そこが、上坂さんの知るもう一つの世界との差異だった。
 システムは俺の体を事故が起こる前の時間へ投影し、歴史を変えた。つまり、システムの中には俺を構成するためのデータがあるはずだ――上坂さんと同じく。
 従って、俺にも同じ存在となるのに必要な条件が揃っていることになる。
「今度は上坂さんは一人ではなく、俺と一緒です。二人なら、一人よりもずっと負担は軽くなる」
 上坂さんが俺の手を取った。俺も彼女の手を握り返す。
 最初にこの話を持ち出したとき、上坂さんは強く反対した。もう一つの世界で足利さんが俺に言ったことを持ち出してまで、俺を止めようとした。
 しかし、結局のところその言葉は全て、上坂さん自身にも当てはまるのである。そして俺には、実際にそれを成す条件が揃っているという切り札があった。
 上坂さんは折れ、その代わりとして俺は約束させられた。重荷を二人で等しく分け合うことを。そして最後の時までずっと一緒にいることを。
 それが俺達の覚悟だった。
「ですが……」
 うろたえる京極さんの隣で、足利さんが冷静な表情で口を開いた。
「その前に上坂茅羽耶、お前に聞きたい。もう一つの世界では、お前は巫女として再生された。そのプロセスをもう一度繰り返したら、どうなる? 上坂茅羽耶は二人になるのか?」
 一見、何の繋がりもなさそうな質問に俺は首を傾げた。上坂さんも戸惑いつつ、それに答える。
「いえ。その試みは実際に行われましたが、私が新たに作られることはありませんでした。システムがそれを制限しているのか、それとも魂みたいなものがあって二人同時には存在できないのか、その辺りは判明しませんでしたけど……」
「なるほどな」
 足利さんが一旦目を閉じ、それから俺達に鋭い一瞥をくれた。
「お前達は巫女になるための条件を備えていない。だから不要だ。今すぐ帰れ」
 いきなりの拒絶に、俺は抗議の声を上げた。
「ちょっ……何を言ってるんですか! 俺達は確かに……」
 それを黙殺し、足利さんは告げる。
「お前らは別世界の記憶を植え付けられただけの、ただの人間だ。一度もこの世界のシステムに取り込まれてなどいない。従って、お前達は巫女になれない」
 単純なまでに明快な回答に、俺は思わず言葉を失う。
「……でも、システムは別の世界同士で情報をやり取りできるはずです。そうでなければ、私と朝倉さんの記憶が伝えられませんから」
「そうかもしれん。だが、一つの世界の中では魂は一つだけ、というルールは変わらん。少し前に本土で、魔術とコンピュータを駆使して魂を解読するという非合法な実験が行われたらしいが、そのときも魂は複製できなかったと聞く。
 つまり、お前達が巫女になるためには、一旦死んでシステムの中に取り込まれる必要がある、ということだ」
「別に、私はそれでも構い……」
「子供が軽々しくそんなことを口にするんじゃあない! いいか、それは必ずしもお前達である必要はなく、他の誰にでも可能なことだ。お前が取り込まれたのは特殊な状況下だったが、朝倉が取り込まれたケースはそうじゃないからな」
 上坂さんの反論は、足利さんの理屈を崩せなかった。それどころか、俺の説明が自分自身のアドバンテージを失わせることになってしまったことを知る。
 俺は無意識のうちに、システムに取り込まれることを忌避していたのだろうか。
 そこで、ふと俺は気付いた。
「ちょっと待ってください。魂が世界に一つだけだとすると、四ヶ月前のことはどうなるんですか? 八月のあの日、俺は本土とここの両方に存在しています」
 足利さんは軽く肩を竦めた。
「お前を投影していたのは未来にあるシステムで、魂本体も未来にあった、とでも考えれば矛盾はない。
 多分、お前を過去へ投影するためにシステムが取り込んだとき、その世界のお前は死んだんだろう。そして投影が終わったとき、お前は消滅したと考えるのが自然だ――上坂茅羽耶と同じように」
「そんな……」
 上坂さんがショックを受け、呟く。
 双葉が投げかけた「朝倉壮太ダッシュはその後どうなったのか」という問いに、思いがけないタイミングで答えが与えられた。俺は上坂さんの手を強く握る。
「俺はそれで良かったと思う。少なくともそれなら、俺の魂は上坂さんと一緒にいられるだろうから」
「朝倉さん……」
 上坂さんの目に涙がじわりと浮かんだ。
「とにかく、お前らが不要なのは分かったはずだ。家へ帰って、ここでのことは全て忘れろ」
 足利さんがぶっきらぼうに言い放つ。
「でも、それじゃ俺達が来た意味がないじゃないですか」
 俺が力なく言い返すと、京極さんが優しげな表情で微笑んだ。
「それは違いますよ。お二人は私達に、システムが持つ巫女を生み出す機能への対処方法を教えてくれました。上坂さん、あなたは私が何を一番守りたかったのか、ご存じですか?」
 指先で涙を拭い、上坂さんは頷いた。
「……はい。娘さんのこと、ですね?」
「そうです。あなた達が教えてくれたおかげで、娘を島に縛り付けられた運命へ巻き込まずに済みます。本当にありがとう」
 京極さんは深々と俺達に向けて頭を下げた。
「い、いえ。俺はただ上坂さんを助けたくてやったことですし、お礼を言われるようなことなんて、何も……。どうか頭を上げてください」
 俺が慌ててそう言うと、京極さんは上体を起こして上坂さんを見つめる。
「上坂さん。あなたがこの世界で成すべきなのは、次代の巫女になることではなく、朝倉さんと二人で幸せになることです。そこに負い目を感じる必要はありません。
 行き過ぎた自己犠牲は、あなたの親しい人達を悲しませることになるのですから。分かってもらえますね?」
「分かりました。ありがとうございました」
 今度は上坂さんが京極さんに向けて頭を下げる番だった。
「……それを君が言うとはな」
 横目で見ていた足利さんが、呆れた様子で呟く。その言葉を聞いて、京極さんはくすくすと笑った。落ち着いた大人の女性の笑みではなく、まるで少女のように楽しそうに。
 それから居住まいを正し、京極さんは俺達に言った。
「さあ、もう随分と遅い時間です。二人とも、そろそろお家へ帰った方がいいでしょう。朝倉さん、上坂さんを送ってあげてくださいね」
「はい。分かってます」
 俺は返事をする。
「それから、もしよろしければ、いつでもここへいらしてください。娘のことも紹介したいですし」
「おい、それは……」
 咎めようとする足利さんに、京極さんは首を横に振る。
「この場所は、これまでとは変わっていくでしょう。少し風通しを良くするのは悪いことではありません。
 それに、あの子のこともあります。私の体が後どれだけ保つのか分からないからこそ、沙々羅をこのままにはしておけないのです」
「……」
 本来ならば三人いるはずの巫女を一人で務め続けた京極さんの体はガタガタになっている、俺は上坂さんからそれを聞かされた。そんな京極さんの願いをむげにすることはできなかったのだろう。足利さんは苦い顔をしつつ、視線を背けた。
「私で構わないのでしたら、必ず来ます」
「俺もです」
 上坂さんが答え、俺が同意した。それを聞いた京極さんはほっとした表情になる。それほどまでに、娘のことを愛しているのだろう。
 それから別れの挨拶を交わし、俺達は京極さんの部屋を辞した。

 境内まで来たところで、足利さんは足を止め、俺達の方を向いた。
「……彼女はああ言ったが、お前らはここへ来る必要はない。娘のことはこちらで何とかする。今後、この神社へは関わるな」
「いえ、そのご忠告は聞けないです。京極さんと約束しましたから」
 毅然として拒否する上坂さんに、足利さんは小さく舌打ちした。そして、
「おい、朝倉。お前はこの娘の言いなりなのか? 少しは甲斐性を見せたらどうだ」
 と矛先を俺に向けてきた。
「そう言われても、俺も上坂さんと同じ気持ちですし……。
 大体、足利さんは俺と大して違わないじゃないですか。所詮、俺達は彼女らに勝てっこないんですよ」
 足利さんは俺の反撃が思いもよらなかったのか、一瞬絶句し、それから喉の奥でクックッと笑った。珍しく、皮肉っぽさのない調子で。
「そうだな。そうかもしれん」
 そんな足利さんに対して、俺は頭を下げた。
「ありがとうございました、足利さん。ご恩は忘れません」
「ありがとうございました」
 俺の隣で、上坂さんもまた足利さんに礼を言う。
「……別に、お前らの為にしたことじゃない」
 足利さんはそう言い残し、踵を返した。
 疑う余地なく、足利さんは俺達の代わりに自分自身が巫子になるつもりなのだろう。その動機が何なのか、俺は全てを察することはできないし、尋ねる資格もなかった。
 でもそこに、俺達の今後を案じてくれた部分があったことは間違いない――その台詞とは裏腹に。
 不器用な生き方だと思う。でも、そんな足利さんに俺は尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
 足利さんの姿が神社の奥に消えた後、俺は上坂さんに手を差し延べた。
「それじゃあ、帰ろうか? 上坂さん」
「はい、朝倉さん」
 決別する覚悟を決めたはずの日常へ至る道を、俺と上坂さんは手に手を取り、歩き出した。

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