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 次の日、俺と五郎は祭りの設営に駆り出されることになった。
 本来ならば冬に相当する季節。同じ緯度にある沖縄だって、最高気温はせいぜい二十五度ぐらいのはずだ。
 にも拘わらず、この塔弦島では十度もそれより高い。文字通りの常夏というわけである。だからなのか、この時期に行われる祭りではあるものの、雰囲気や活気は夏祭りという印象が強い。
 そして当然、準備もまた夏さながらの炎天下で行われるわけで、汗みどろになりながら俺は櫓の設置を手伝っていた。マスターと一緒に木材を組み上げ、ボルトでそれを止めていく。
「そう、そこのボルトを締めたら櫓は完成だよ」
 マスターの指示に従い、ラチェットレンチでボルトを締める。緩まないように、さりとて締め過ぎて木を傷めないように、その辺りの力加減は数をこなしていくうちに慣れてきた。
「……よっと。終わりました」
 締め終え、腕で額の汗を拭う。
「ご苦労様、朝倉君」
 俺以上に働いていたマスターは、まだまだ余力がありそうだ。インドア派かと思っていたけど、意外に筋肉質だった。
「向こうに飲み物を用意してあるから、少し休憩してくるといいよ。水分補給は大切だからね。ちょっとぬるくなっているかもしれないけど」
「ありがとうございます。じゃあちょっと、お言葉に甘えて」
 俺はマスターに教えられた場所へ行き、ビニール袋からお茶のペットボトルを取り出した。マスターの言う通りすっかりぬるくなっていたけれども、それでもカラカラに乾いた喉を潤してくれるのだから文句は言えない。
 そうしてペットボトルをあおりながらしばし休憩しているとき、ふと近くを通りがかった一人の男性の姿が目に入った。日焼けした肌に明るい色のシャツ、目にはサングラスをかけている。そこらで俺達と一緒に働いている商店街のオッサン連中とは明らかに違う、独特の迫力があった。でも、いわゆるテキ屋みたいな類の人でもなさそうだ。
 何とはなしに見ていると、不意にその男性は俺に視線を向けた。
「……何か用か?」
 サングラスの向こうから、射すくめるような鋭い眼差し。けれど自分でも意外なことに、俺はあまり怖いとは思わなかった。
「いえ、あの……。前にどこかで会いませんでしたか?」
 そう、何かこの人に覚えがあるような気がするのだ。とは言うものの、どこで会ったのかはさっぱり思い出せないが。
「俺の記憶にはないな」
 その男性は値踏みするように――実際、そうなのだろう――目をすがめて俺を見る。
「そうですか。すみません、変なこと聞いちゃって」
「……いや」
 男性は俺の全身を一瞥し、それから去っていった。
 何となく、俺は自分がマークされたのだろうと感じた。まあ、今の言動を他人の目から見れば、怪しいと思われても仕方がない。
 ただ、それを気に病む必要はないだろう。おそらく彼は、こちらが声をかける前から俺のことを注目していたに違いないのだから。
「よう、壮太。そっちは終わったのか?」
 と、そこへ五郎がやってきた。すっかりダレた様子だったが、俺も端から見ればこんな感じなのだろう。
「ああ、櫓は組み上がったよ。なんか飲むか?」
「んじゃ、俺もお茶」
「ほれ」
 ペットボトルを五郎へ向かって放り、俺はまた男性の去っていった方を眺めた。
 奇妙なことだが、俺の心はあの人を信頼しているようだった。初対面であり、普通に考えれば警戒して当然の相手を。それはとても不思議な感覚だった。

 夕方になり、俺と由比子、そして双葉の三人は、待ち合わせ場所の神社前まで一緒に向かった。
「あっ、朝倉さーん」
「よお」
 灯籠の手前には、もう上坂さんと五郎が待っていた。こちらに気付いた上坂さんが、俺の名前を呼ぶ。
「待たせてごめんね」
「いえ、私達も今来たところですから」
 上坂さんが着ているのは、深い青――瑠璃色、と言うのだろうか――の浴衣だった。いつもは頭の左右で一房ずつ結わえている髪も、今は後ろで一つに纏められている。
 上目遣いで、何かを期待したような表情の上坂さんから、少し目を逸らして俺は言った。
「その……凄く似合ってる。浴衣も、髪型も」
 どうしてもっと気の利いたことが言えないのかと軽く自己嫌悪に陥った俺だが、上坂さんはにっこりと笑った。
「ありがとうございます。嬉しいです」
 どうやら俺の拙い褒め言葉でも満足してもらえたらしい。
「その柄は何の花なのかな?」
 浴衣にあしらわれている、花びらが幾重にも重なったような赤や黄色の花の名前を尋ねてみた。
「これはですね、ムギワラギクと言うんだそうです」
「ああ、いつも麦わら帽子を被ってるから……」
「そ、それはたまたまですっ」
 と、話が弾んだところへ、
「なになに? あっちの知らないうちに、そー太と茅羽耶お姉さんの仲が随分と良くなってない?」
 にんまりという形容が適切な表情で、双葉が割り込んできた。
「えっ? いや、別に……」
「あっちと由比子の浴衣姿を見ても、なーんにも言ってくれなかったのにね」
「……」
 ニシシと笑う双葉に、半眼でこちらを睨む由比子。
「あ、ごめん。二人とも似合ってるよ」
 上坂さんに向けて言った台詞とさほど変わらないのに、由比子はお気に召さなかったようだ。
「そんな、取って付けたみたいに言われてもね。第一、心がこもってないし」
「う……」
 弁解の余地もなさそうだった。
 そんな俺の姿に苦笑しつつ、五郎が話を切り上げる。
「ま、いつまでもこんなとこで喋ってないで祭りに行こうぜ、祭り。早く行かないと、食いっぱぐれちまうからな」
 促され、俺達は会場に向かって歩き出した。
 その道すがら、事情を知りたがる双葉に昨日のことを説明する。五郎とマスター、そして上坂さんが体験したこと。それから、マスターの言った『朝倉壮太ダッシュ=タイムトラベラー』説について。
「うーん……? なんか良く分かんない。そー太が未来からやってきて、茅羽耶お姉さんを助けて、歴史が変わる?」
 双葉には少し難しかっただろうか。正直、俺達でも納得したとは言い難い部分だし。
「ほら、未来から来た猫型ロボットのマンガとか、殺人アンドロイドの映画とかがあるでしょ。あんな感じよ」
 由比子が随分といい加減に説明した。
「ん。そこは何となく分かるけど……。で、未来から来た殺人猫型そー太ロボは、その後どうなったのさ?」
 なんか色々混ざってる――と突っ込もうとして、俺達はハタと顔を見合わせた。
「……言われてみれば、そうですね。朝倉ダッシュさんはどこへ行ってしまったんだろう?」
 首を傾げる上坂さんに、五郎が安直に答えた。
「そりゃ、未来に帰ったんだろうな」
「でも、どっちの未来なんだ? 少なくとも、俺達が今いるこの世界には朝倉壮太ダッシュの居場所がないぞ」
 すかさず指摘する俺。由比子も頷く。
「そー太が二人になっちゃうもんね。でも、向こうの世界に戻ったんじゃ、何のために歴史を変えたのか分からないし」
 もしかしたら、上坂さんが事故に遭わない世界が存在すると知っただけで、その俺は満足したのだろうか。同じルーツを持つはずの自分のことだけど、さすがにその内心を推し量ることはできない。
 どうやら、謎が全て解明されたというわけでもなさそうだ。
 そうこうするうちに、俺達五人は祭りの会場へ到着した。そこで双葉は前に飛び出すと、振り向いて両手を広げた。
「ま、難しい話は後にしようぜっ。あっちは今、存分にお祭りを楽しみたい気分なのさ」
「自分から言い出しといて、この子は……」
 ゲンコツを握りしめる由比子を、上坂さんがなだめる。
「まあまあ。考えるのは後でもできるけど、お祭りは今を逃したら終わっちゃいますから」
「その通り。さすが茅羽耶お姉さんは分かってるね。
 それじゃあゴロー、と言うかゴローの財布。まずはあのフランクフルト目指してレッツらゴー!」
「ええっ? 俺じゃなくて財布に呼びかけてんのかよ!」
 双葉は五郎の手を引っ張り、屋台に向けて駆け出していった。五郎には悪いが、つい笑ってしまう。
 そのとき、上坂さんが目を輝かせているのに気付いた。
「じゃあ、私も朝倉さんのお財布に呼びかけてもいいですか? 実は浴衣でお小遣いが飛んでしまったので……」
「ちょ、ちょっと待って!」
 慌てた俺に、上坂さんは吹き出した。
「あはは、冗談です。浴衣は母が用意してくれたものですし、父からもお祭り用の軍資金をもらっているから安心してください」
 俺はほっとして、胸をなで下ろした。
「相変わらず、上坂さんの冗談は笑えないよ……」
「前にも言われましたよね、それ。今のは自虐的な冗談じゃないと思うけど」
「どっちにしても、ね」
 上坂さんはくすくすと笑っている。
 そんな俺達のやり取りを、由比子は奇妙なものを見るように眺めていた。
「あ、あのさ……。もしかして、上坂さんとそー太って前にも会ったことがあるの?」
 変なことを尋ねてくる由比子に、上坂さんはかぶりを振った。
「いえ、そんなことないですよ。一昨日に会ったのが初めてです」
「今日で三回目だな。全部、お前のいるときだったじゃないか」
 俺が補足する。
「じゃ、じゃあ……、そー太が『相変わらず』って言ったのはどういう意味なの? それに、上坂さんも『前にも言われた』って。だけどあたし、二人がそんな話をしているところは見たことないよ」
 思いもよらない指摘に、俺は絶句した。上坂さんの表情を見ると、やはり全く意識していなかったようだ。
「……三好さんの言う通りですね。どうして私、そんなことを言ったんだろう?」
 俺も頷きつつ、しかし奇妙な既視感に頭を悩ませる。
「でも確かに、上坂さんの笑えない冗談を聞いた覚えがあるんだよな……」
「それは私もです。だけど、この三日間の話じゃないですよね」
 あるはずのない記憶に戸惑っている俺達。
「もしかして、別の時間の記憶が混ざってるとか? それなら、上坂さんが言った『笑えない冗談』ってのはどんなのだったか覚えてる?」
 由比子の質問に、上坂さんは人差し指を口元に当て、首を傾げた。
「えーと……。あっ、一つ思い出しました! 結構自信作だったんだけど、自虐的だからと、その場の誰も笑ってくれなかったものを。
 確かですね――『この島にいたからこそ、私は幽霊みたいな存在になっても、こうして生きてることができます』……って……」
 言い終えて、自分の喋った内容を理解した上坂さんの顔から血の気が引いた。
 それは当然だ。『幽霊みたいな存在』が自虐的な冗談になり得るということ、それは上坂さんがこの世のものではなかったことを仄めかしているから。そして事実、その意味だったことを俺はおぼろげに覚えている。
 つまりは、本来ならあの崖崩れで、上坂さんは亡くなっていたということになるのだろう。実際、昨日の喫茶店でも「死んでいてもおかしくない」という話は出ていた。しかしまさか、本当にそうだとは思いもよらなかった。もし上坂さんが事故で命を落としたのだとすれば、普通に考えたらその世界の俺は上坂さんに一度も出会っていないことになるからだ。
 上坂さんも、これにはかなりのショックを受けたようだった。日焼けしていない顔をいつも以上に白くして、俯き加減で考え込んでいる。
 自分が不可解な記憶を引き出すきっかけとなったことを後ろめたく感じたのか、由比子は無理に笑顔を作って俺と上坂さんに語りかけた。
「で、でもさ。何が起きたのかなんて今のところはっきりと分かっているわけじゃないし、あんまり気にする必要はないんじゃないかな。
 今はほら、お祭りを楽しもうよ。双葉達も先に行っちゃったから、追いかけないと」
「……そうですね。本当にただの冗談だったのかもしれないですから。この話は、また今度にしましょう」
 上坂さんも、由比子に応えて明るい表情を装う。
「そうだね。じゃあ二人とも、行こうか」
「はい」
「うん」
 それから俺達三人は、提灯や屋台の明かりが煌々と宵闇を照らし、人々が笑いさざめく雑踏の中へと足を踏み入れていった。

 その後、五郎と双葉に合流した俺達は、連れ立って屋台を回りながら祭りを堪能した。
 お好み焼きにトウモロコシ、ドネルケバブ、りんご飴と、手当たり次第に買っては、みんなで分け合って食べたり。射的にハマってかなりの金をつぎ込んだ成果が、百円以内で買えるような駄菓子ばかりだったり。由比子が水風船を次々と釣り上げて、店主のオッサンに苦い顔をされたり。
 そんな中、先ほどの記憶のことが気になるのか、上坂さんが時折ぼんやりしているのを見かけた。それに関しては由比子も、そしてもちろん俺も同様だ。気にするなと言う方が土台無理な話のだから。
 それでも、十分に祭りを楽しめだと思う。悩んでもすぐ答えが出るとは思えないし、何より上坂さんは確かに生きているのだから。あまり気に病んで、今ここにある幸せを逃してしまうようでは、せっかく時間を超えて上坂さんを救ったもう一人の俺に申し訳が立たないというものだろう。
 やがて夜も更け、お開きの時間になった。名残惜しみつつも会場を後にし、俺達三人は上坂さんと五郎に別れを告げた。
「ふんふんふーん、ふふふーんふーふんふん♪」
 入道雲の合間から姿を覗かせる月に照らされた夜道を、上機嫌の双葉が鼻歌を歌いながら歩いている。手には赤い水風船が一つ。勝負事にめっぽう強い由比子が取った残りの風船は、近くにいた子供達にあげてしまった。
 その由比子は、黙り込んだまま俺の隣を歩いていた。そして不意に、顔を上げて俺に尋ねてくる。
「……あの、さ。別の世界のそー太は、どうして上坂さんを助けようと思ったのかな?」
「それは――」
 答えに窮して俺が口ごもると、由比子は困ったように笑った。
「あ、ごめん。分かるわけないよね」
 と、そこで双葉がチッチッチッと舌を鳴らし、人差し指を立てた。
「子供だなー、由比子は。そんなの決まってんじゃん。愛だよ愛。
 時間を超えて、そー太は愛する人を救いに来たのさっ」
「またあんたは、そうやって人を馬鹿にして……」
 憤慨した様子で言ってから、由比子はふっと穏やかな表情になった。
「でも、そうだね。きっとそうなんだと、あたしも思う」
 吹っ切れたような、すがすがしさを感じさせる微笑みを浮かべた由比子は、俺の背中をどやしつけた。
「いてっ。何するんだよ」
「上坂さんはいい人なんだし、泣かせたりしたら承知しないからね」
「そうそう。お嬢様っぽいから、きっと泣かせたらお父さんが怖いだろうね」
 文句を付けた俺に、由比子と双葉は冷やかし半分の言葉を投げかけてくる。
「だから、向こうの世界の壮太ダッシュは、俺とは別人なんだって」
「そんなこと関係なしに、そー太は茅羽耶お姉さんのことが好きなんでしょ?」
 直球の質問を放つ双葉に、俺は言葉を濁した。
「それは……。でも、上坂さんを助けたのは俺じゃないんだ。それにつけ込むみたいで、ちょっと後ろめたいな」
 港で彼女と出会ったときから感じていたことではあった。そこに、先ほど断片的な記憶が浮かび上がったことで、その思いは強まっている――上坂さんを死から救うために時間を遡ったもう一人の俺に、この俺は見合う存在と言えるのだろうか、と。
 由比子はそんな俺を見て、盛大にため息をつく。
「あのね、上坂さんは馬鹿じゃないんだよ? そんなことはとっくに承知してるだろうし、上坂さんがそれだけの理由でそー太のことを好きになるはずないじゃない。それじゃ、上坂さん自身の意思をないがしろに考えてるのと同じでしょ」
「うっ……」
 正論を突き付けられ、俺は言葉もなかった。そこへニヤニヤ笑いの双葉が追い打ちをかける。
「そー太は頭で考え過ぎなのさ。どっちも同じそー太でいいじゃん。大体、茅羽耶お姉さんがそー太に恋してると決まったわけでもないしね」
「……仰る通りです」
 もはやグゥの音も出ない。
「それじゃ、早く帰ろうか。今日は楽しかったけど疲れたから、お風呂に浸かってゆっくりしたいし」
「さんせー」
 言葉とは裏腹に元気そうな従姉妹達の姿を横目に、俺は小さくため息をついた。

 ペンションに戻り、由比子や双葉の後に風呂を頂いた後、俺は床に就きながら考え事をしていた。
 別の時間にいた俺がタイムスリップして過去を変えたというマスターの仮説。双葉が尋ねた、朝倉壮太ダッシュのその後。俺と上坂さんの中にある、断片的な別の世界の記憶。そして、上坂さんの記憶が暗喩するもの。
 横になっていても一向に睡魔の訪れる兆しはなかった。
 上坂さんの身に一体何が起きたのだろう。どうしてその世界の俺は上坂さんを助けようとしたのだろうか。心の奥を探っても、曖昧な既視感以上の記憶は出て来なかった。
 寝返りを打ちつつ堂々巡りの思考を繰り返していた俺は、いつの間にか時刻が明け方近くになっていることに気付く。今日はもう眠ることはできそうになかった。
 体を起こし、パジャマから服に着替えてしまう。それから、気分転換に外へ出てみることにした。
 ミホさん達や泊まり客を起こしてしまわないよう、音を立てずに玄関から表へ抜け出す。空はまだ暗く、星々がきらめいていたけれど、東の方は次第に白んできているようだ。それならいっそ、夜明けの海でも見てみようと、俺は砂浜の方に足を向けた。
 常夏の塔弦島と言えども、さすがにこの時間帯では少し気温は下がっている。それでも肌寒いと言う程ではなかったが。
「……」
 何とはなしに空を眺め、馴染みのある星座を探してみる。けれども、あまり星に詳しい方ではないから、北斗七星ぐらいしか見つけられなかった。この緯度なら南十字星が見えると聞いたことを思い出し、そちらにも目を向ける。地表ぎりぎりのところに、十字型に並んだような明るめの星が見えたが、あれがそうだろうか。
 そうこうしているうちに、砂浜へと辿り着いた。俺は砂地の中へ足を踏み入れ、波打ち際へと近づいた。
 波がうねり、押し寄せ、そして引いていく。飽くことなく繰り返されるリズムは、しかしどれ一つとして同じものはない。その黒くたゆたう夜の海の上で、空がゆっくりと夜明けの赤に染まっていった。
「おはようございます、朝倉さん」
 不意に後ろから声をかけられ、驚いて振り向くと、そこには白いワンピースを着た少女の姿があった。
「上坂さん、どうしてこんな時間に?」
「それは朝倉さんもじゃないですか」
「俺は、その……なんだか色々考えていたら眠れなくて」
 その言葉に、上坂さんはにっこり笑った。
「それなら、私と同じです」
 それからサンダルで砂を踏みしめ、俺の隣に立った。二人並んで東の空を眺める。
「もうすぐ、夜が明けますね」
 長い黒髪を風になびかせて、上坂さんは囁くような声で言った。
「あれから何か思い出せた?」
 尋ねると、上坂さんはかぶりを振る。
「いえ、ほとんど何も。朝倉さんはどうですか?」
「俺も同じだよ。ただ、一昨日――じゃなくて、もう三日前か――この島へ来る船の上で、何か変わった夢を見たのを思い出した。一生懸命走ったり、高いところから海へ飛び込んで泳いだりした夢」
 隣で上坂さんが息を飲むのが聞こえた。
「それって……」
「かもしれない。でも、ただの偶然で、無関係な夢かもしれない。内容はほとんど思い出せないから」
「……そうですか」
 結局、何が分かったということもなかった。
 曖昧な記憶、そして曖昧な心。
 それでも俺は、こうして二人で朝日を迎えようとしていることが、この上もなく大切なことに感じられた。何故かは分からなくとも。
 そして、太陽が海の向こうから姿を現す。旭光が辺りを照らし、空と海の黒を、赤へ、そして青へと染め上げていく。
 喩えようもないほどに美しい眺めだった。
 そう、俺はこの光景を、この人と一緒に見たかったのだ。
「私は……」
 上坂さんが切り出す。隣を見ると、上坂さんは真摯な表情で俺を見つめていた。
「私は、知りたいです。何が起きたのか。朝倉さんがどうして私を助けてくれたのか。そして……別の世界の私が朝倉さんのことをどう想っていたのか」
 同じように上坂さんを見つめ返す。
「俺も知りたい。俺が君のことをどう想っていたのか」
 上坂さんの瞳に俺の姿が映る。おそらくは、俺の瞳にも彼女の姿が映っているのだろう。
 二対の合わせ鏡が向かい合わせになったとき、それは起きた。
 痛みを伴わない、鋭い衝撃が頭を貫く。そして……

『その、明日からまた会ってもらえますか?』

『……あの、初対面ですよね? 昨日って何のことですか?』

『私がもし、朝倉さんのことを思い出せたら……そしたらそのときに教えるということで』

『……あの、何があったのか分からないですけど、元気を出してください』

『朝倉さん、嘘つきですね。父の知り合いじゃなくて、私の友達じゃないですか』

『放して……放してください。それで、私にはもう関わらないで……』

『ありがとうございます……私、幸せでした』

 永遠に繰り返される三日間を超えて、俺のことを好きだと言ってくれた少女。
 その人に関わる記憶が今、俺の中に刻まれていく。別の世界、別の未来を歩んだ俺が、こちらの世界の俺と統合されていく。
 その理由が、今の俺にははっきりと分かった。システムが、俺と上坂さんの願いを聞き届けたのだと。京極さんが支えている由来も原理も分からない装置が作動し、俺達二人の願いを叶えたのだと。
 咄嗟に閉じていた目を開くと、俺の正面で上坂さんが、俺と同じように目を瞑っていた。その瞼がゆっくりと持ち上げられ、つぶらな瞳が再び俺を映す。
「……会えた……また、会えました」
 目尻から透明な涙が溢れ、頬を伝った。生まれたばかりの朝日がそれを受け止め、きらめかせる。
「時の流れすら書き換えて、朝倉さんは私を助けてくれたんですね。ありがとうございます――きっと、どんなにお礼の言葉を重ねても足りませんけど」
「俺が勝手にしたことだから、お礼なんて必要ないよ」
 視界がぼやけた。俺もまた、上坂さんと同じく涙を流しているのだろう。
「俺はただ、上坂さんと一緒にいたかっただけなんだ。君のことが……好きだから」
 上坂さんは表情を歪め、それから堰を切ったように泣き始めた。
「ぐっ……朝倉さん。ひくっ、あさくら、さん……うわああっ」
「……っ」
 しがみつき、肩に顔を埋めて泣く上坂さんを俺は強く抱きしめた。もう二度と、この子を放さないように。決して失うことのないように。
 嗚咽が喉から漏れるのを堪えようとも思わなかった。ここには俺と上坂さんしかいないし、仮にそれを見た誰かがみっともないと言うのなら、言わせておけばいい。今はただ感情の渦に身を任せ、二人が再び出会えたこの喜びを分かち合い、過ぎ去っていった絶望の残滓を涙が押し流してくれるのを感じていたい。
 どれくらいの時間が経っただろうか。やがて上坂さんの泣き声は小さくなり、肩の震えも止まった。腕をそっと緩めると、上坂さんはようやく顔を上げる。泣き腫らした目は赤くなり、まだ少々しゃくり上げてはいたものの、上坂さんの表情に笑顔が戻った。
「ぐすっ……。朝倉さん、目が真っ赤ですよ」
「それは俺も今思ってたところ」
「じゃあやっぱり、同じですね」
 それから、上坂さんは俺に肩を預け、沖の方を眺めた。
「日の出、もう終わっちゃいました」
「うん。だけど、見たければいつでも、何度でも見られるさ」
「……ずっと朝倉さんと一緒にいたいです。私がお婆ちゃんになってしまっても」
「俺はそばにいるよ。六十四歳になっても、君が俺を必要としてくれるなら」
 上坂さんはくすっと笑った。
「夜中の三時の十五分前までに帰ってこなかったら、ドアに鍵をかけちゃいますよ?」
「それは困るから、その前までに帰るよう努力する。だから、ずっと一緒にいよう――六十四歳になっても、それから先も」
「そうですね。そうなれたら、いいですね……でも」
 そこで上坂さんは俺から身を離した。こちらを見つめるその瞳の奥に、もう消えてしまったと俺が思っていたもの――悲しみが宿っていることに気付く。
「もしかしたら、その約束は果たせないかもしれません」
「どういうこと……?」
 上坂さんは目を伏せ、それから俺に尋ねた。
「朝倉さんは、この世界での記憶とは別の記憶を受け取りましたよね? その記憶は、一つだけですか?」
「……ごめん、言ってる意味が分からない」
 混乱して俺がそう返すと、上坂さんは俺の目を見た。それは覚悟を決めたような、澄んだ瞳だった。
「私の別世界の記憶は、二つあるんです。一つは、朝倉さんに抱きしめられながら消えた、多分あなたが知っている私の記憶。
 そしてもう一つは――私がこの島の巫女になる記憶です」

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