鏡の中の影身
2006-10-09 by Manuke

 ……分身し、いくつもの数に増えたミカゲちゃんが、感情のこもらない硬質の視線をノゾミちゃんに向けていた。
「姉さまはもういりません。主さまの分霊としての判断です」
 ミカゲちゃんは冷たく、静かに言い放つ。ついさっきまでの気弱そうなミカゲちゃんとは全く違う、傲岸不遜にノゾミちゃんを見下す口調だ。
「――!?」
 ノゾミちゃんがその言葉に息を飲んだ。
 主の分霊――漠然としか分からないけど、とても不吉な意味を持つのだろうということは伝わってきた。
 ミカゲちゃんはノゾミちゃんの妹なんかでは全然なく、きっと主がノゾミちゃんをいいように操るために作り出したものなのだろう。
「ミカ――」
 ノゾミちゃんは、依代である鏡から《力》の補給を止められ、苦痛に喘ぎながらも立ち上がった。
「このっ……ミカゲェーーーッ!!」
 そして、ノゾミちゃんを見据え、叫んだ。たちまち部屋の中が真紅の眼光で満たされる。いったい、体に残っている《力》のどれほどを使ったのだろう。
 何が起こるのかと固唾を呑んで見守っていたわたしの腕を、ノゾミちゃんが不意に引っ張った。
「わ……」
 ノゾミちゃんは、わたしの腕を引いたまま廊下へ飛び出そうとする。わたしは反射的に、部屋の中にいるミカゲちゃん達を振り返り――
 ――不意に違和感を覚えた。
 ミカゲちゃん達は表情を変えずに、飛び出していくわたし達の方を見つめている。けれど一人だけが、その瞳に動揺の色を浮かべているのをわたしは見た。分身を作る前のミカゲちゃんが立っていた場所にいる子だ。だとすると、それは分身ではなくオリジナルのミカゲちゃんということなんだろうか。
 一瞬のことだったから、はっきりとは分からなかった。けれど、それは悔恨と悲しみが入り交じったものだったように思う。
「ちょっと、ノゾミちゃん!?」
 ぐいぐいと、ノゾミちゃんはわたしの腕を引っ張り、旅館の廊下を疾走する――絶え間なく鳴り響く鈴の音を置き去りにするように。
「ちょっ、ちょっと待って……」
「いいから――それともあなた、あんなにたくさんのミカゲから血を吸われたい!?」
 制止するわたしの言葉を、ノゾミちゃんが遮って言った。
「そ、それは嫌だけど……でも、なんだかミカゲちゃん、変だったよ?」
「変なのは当たり前でしょう! この期に及んで何を言っているのよ、あなたは? それより、早くなさいな!」
 靴を履く暇も与えてくれず、ノゾミちゃんはわたしを旅館の外へと連れ出した。
 煌々と青白い光を投げ掛ける月の下、わたしはノゾミちゃんに手を引かれて夜道を走る。不思議なことに、行き交う人々はわたし達の姿が目に入っていないようだった。
 ノゾミちゃんは容赦なくわたしを引っ張っていく。裸足のままだから足の裏が凄く痛い。激しい運動に酸素を求めて胸を喘がせるものの、全然追いつかなかった。
 舗装された道路から田んぼの合間を縫う畦道へと移ったところで、ノゾミちゃんの走る速さがゆるやかになった。わたしはほとんど転ぶような状態でへたり込み、弱音を上げる。
「もう駄目……これ以上、走れないっ……」
 息も絶え絶えのわたしに、ノゾミちゃんが呆れたような表情で言った。
「あなた、どうしてそう余裕なのかしら」
「……よ、余裕なんか……全然ないよぉ」
 我ながら情けない声だった。ノゾミちゃんは小さくため息をつく。
「分かっているの? ミカゲに捕まったらあなたの命はないのよ。それが嫌ならもっと死に物狂いにおなりなさい」
 ノゾミちゃんの言う通りではあるけど、体が動かないのはどうしようもない。普段から体力をつけておけば良かったと後悔しても、今更だった。
 ふと、そこでわたしはノゾミちゃんの顔色がとても悪いことに気付いた。ノゾミちゃんがミカゲちゃんに力の供給を止められてしまっていたことを思い出す。
「ごめんね……ノゾミちゃんの方が、ずっと苦しいんだよね……」
 わたしが切れ切れに言うと、ノゾミちゃんは首を傾げた。ちりん、と涼しげに鈴の音が鳴る。
「私はあなたを狙い、あまつさえその血を啜ったのだというのに、どうしてそんな風に気遣いができるのかしらね。あなた少し抜けているのじゃなくて?」
「うー、酷い……」
 自分では結構しっかりしているつもりなのに。
 抗議の声を上げたわたしに、ノゾミちゃんは楽しそうな様子で口元へ笑みを浮かべた。そうしていると、少しも怖い感じはしない。ちょっと意地悪だけど。
「まあ、それはあなたが気にすることじゃないわ。良月からの《力》を断たれた私は、そう長くは保たないでしょうね。鬼となったこの身、その覚悟はいつでもできているもの。けれど――」
 ノゾミちゃんは一旦言葉を切り、目を伏せた。
「――結局、私は自由ではなかったのね。助けてくださった主さまを恨む気持ちは毛頭ないけれど、私は自分の意志で行動していたのではなく、妹のふりをしたミカゲにいいように操られていたのよ。まったく、これが滑稽でなくてなんだと言うのかしら」
 自嘲するノゾミちゃん。この子のしてきたことは確かに悪いことだけど、それでもノゾミちゃんは自分なりに運命に抗っていただけなのだと思う。そこを主につけ込まれたのは、この子のせいじゃない。
 そして、わたしには一つ懸案があった。ようやく呼吸が戻ってきたところで、ノゾミちゃんに切り出す。
「ねえ、ノゾミちゃん……。ミカゲちゃんって、本当に主の分霊なのかな?」
 ノゾミちゃんはわたしの言葉を聞いて、案の定眉をひそめた。
「あの子がそう自分で言ったのを、あなたも聞いていたでしょう、桂? 大体、ミカゲが私の妹ではないと言い出したのもあなたよ――忌々しいことに、その通りだったけど。
 それを今更蒸し返してどうしようと言うの?」
「あ、うん。それはそうなんだけど……。わたし、旅館の部屋を出るときにね、見たんだ。たくさんいたミカゲちゃんのうち一人だけが、なんだかとても悲しそうな目をしていたのを」
 それを聞いたノゾミちゃんの表情が変わった。
「なんですって……? そんなこと、あるはずがないわ」
「あるはずないって、どういうことかな?」
 尋ね返すわたしに、ノゾミちゃんは肩を竦めた――なんだかその仕草はアメリカンな感じがして、ちょっと可愛い。
「私とミカゲは、鏡の妖なのよ。依代である良月の属性を利用した分け身は、主さまの作り出す分霊とは違って同じ意思の元で動き、同じ姿しか持ち得ない。合わせ鏡に写し出された似姿が、寸分違わぬ格好をしているのと同じよ」
「でも、ミカゲちゃんがノゾミちゃんにない力を持っているということも……」
 言いかけたわたしを、ノゾミちゃんはあっさり否定する。
「それこそ、あり得ないわ。もしミカゲが私より力を持っているというのなら、私をそそのかして主さまをお救いしようとする必要がないもの。ミカゲ自身がそれをすればいいだけ」
「あ、そっか」
 主導権がノゾミちゃんにあるものと錯覚させたまま事を運ぶより、ミカゲちゃんが自分で動いた方が手っ取り早い。ノゾミちゃんに対する《力》の補給を止めたりできたのはその扱い方に長けていたというだけで、おそらく本質的には二人の力はほぼ同等なんだろう――それこそ、鏡写しのように。
「じゃあ、あのときのミカゲちゃんは……」
 拳を口元に当てて思案する。
 鏡に写し出された無数のミカゲちゃん。同じものを写しているから、全部同じ姿。けれど、もしその一つが違う様子をしていたのだとすると――
 わたしは不意に思いついた。
「元になるミカゲちゃんが一つじゃないとしたら、どうかな? 写像の元が二つあったら、合わせ鏡の中に違う姿があっても不思議じゃないよね?」
「それは……」
 思ってもみなかったことだったのか、ノゾミちゃんは目を丸くして言葉を途切れさせた。
「まだ何かあるんだと思う。ミカゲちゃんが自分で言った通り主の分霊なんだとしても、それだけじゃない何かが」
「……けれど、部屋を出るときにちらりと見ただけなのでしょう? 見間違いということではなくて?」
 疑問をぶつけてくるノゾミちゃん。それはもっともな言い分だった。
「確かに一瞬だったけど……。でもきっと見間違いなんかじゃないよ」
「根拠はあるのかしら?」
「うぅ、ないです……」
 わたしの答えに、ノゾミちゃんは小さくため息をつく。
「まあ、いいわ。信じてあげる。いずれにしても、私にはほとんど道は残されていないのだもの」
 そして、ノゾミちゃんは苦笑を浮かべながら、わたしに向かってそう言った。ノゾミちゃんは、本当はとてもまっすぐな子なのかもしれない。
「ありがと~、ノゾミちゃん」
「べ、別に礼を言われる筋合いはないわ。元々、あなたを引っ張ってきたのは目的があってのことだし」
 わたしのお礼に、ノゾミちゃんは慌てて顔を背ける。そうしたところで素直になれないのもノゾミちゃんらしかった。付き合いは長い方ではないけれど、わたしはだんだんノゾミちゃんの人となりが分かってきたように思う。
 ……と、思考が脱線してしまった。
「えっと、目的ってなに?」
 尋ねるわたしに、ノゾミちゃんは行く手を指差した。
「この近くにあるのよ――私の依代である良月が。桂、あなたにはそれを壊してもらおうと思っていたのだけれど」
「ええっ? で、でも、そんなことしたらノゾミちゃんが……」
 ノゾミちゃんは前を見たまま語る。その表情は分からない。
「構わないわ。死を望むわけじゃないけれど、私が本当に欲しかったのは自由なのよ。何かに囚われて生き長らえることになど、何の未練もありはしないもの」
 満月には少しだけ足りない月の光が注ぐ下、双子の鬼の片割れは立っていた。寄る辺を失くした少女の肩は小さく、けれどその視線はまっすぐに前を向いているのだろう。
 わたしはこの子を嫌いじゃなくなっていることに気付いた。
 ノゾミちゃんは鬼で、しかも多分わたしのお父さんが亡くなったことに関係している。本来なら、仇と憎むはずの相手だった。でも、ノゾミちゃんの過去を見て、その心を知ってしまった今、どうして嫌うことができるだろうか。
 自分でも甘いということは分かっていた。サクヤさんはきっと呆れるだろうし、烏月さんには怒られてしまうかもしれない。だけど、わたしはそれでいいと思う。きっとノゾミちゃんとは仲良くなれると、そう感じるから。
 ノゾミちゃんが振り返り、不敵な笑みを浮かべて続けた。
「……まあ、いずれにしてもそれは後回しね。あなたの言った、ミカゲの変わった様子とやらを調べるのが先よ。それで桂、何か策はあるのかしら?」
「へっ……?」
 唐突に話題を振られたわたしは、ちょっと間抜けな声を上げてしまう。
「だから、あなた自身が言ったことを、どう確かめようというのかを聞いているのよ」
 途端に不機嫌そうな表情になるノゾミちゃん。凄く短気だ。さぞかしミカゲちゃんも苦労したに違いない、と思ってしまった。
「あ、えーとね。ミカゲちゃんはたくさん分身したときに様子がおかしかったみたいだから、同じような状況を再現できないかな?」
「分け身、ね。あの子がそう簡単に挑発に乗ってくれるかしら」
 ノゾミちゃんは思案顔になって視線を夜空に向けた。
「うん、ミカゲちゃんってノゾミちゃんより冷静そうだし……」
 思わず口から出てしまった言葉に、ノゾミちゃんがムッとした表情になる。
「……悪かったわね。どうせ私はいらない子なのだもの。お父様にも、そして主さまにも見捨てられてしまった、ね」
 そううそぶくノゾミちゃんが、とても悲しく見えた。わたしは体を起こしてノゾミちゃんの手を取り、首を横に振った。
「な、なによ……」
「駄目だよ、ノゾミちゃん。そんな悲しいことを言っちゃ。だって、わたしはノゾミちゃんのこと嫌いじゃないよ?」
 ノゾミちゃんは月明かりの元でもはっきり分かるほどにたじろぎ、そしてわたしの手を振り払った。
「そんな調子のいいことを言っても意味がないわ。どうせあなただって、全てを思い出せば――」
「お父さん達のこと?」
 ノゾミちゃんの言葉を遮ってわたしが呟くようにポツリと言うと、ノゾミちゃんの目が大きく見開かれる。
「桂、あなた……」
 わたしは頷いた。
「全部じゃないけど、大体は思い出せたと思うよ。でもやっぱり、わたしはノゾミちゃんのこと嫌いにはなってないから」
 その言葉を聞いて、ノゾミちゃんが絶句する。
 お父さんはあの事件のせいで命を落とした――火事なんかじゃなく。双子の片割れである白花ちゃんも、多分同じ時に。ユメイさん……ううん、柚明お姉ちゃんもきっと、主を封じるためにあんな姿になってしまったんだろう。
 それを為したのは、確かににノゾミちゃんとミカゲちゃんの二人だ。でも、そこにわたしというきっかけがなかったら、そもそも何も起こりはしなかった。わたしが言い付けを守らずに蔵へ入り、鏡の封印を解いたことが、全ての元凶なのだから。その罪を二人に押しつけて逃れることなんてできない。
 ノゾミちゃんはため息を一つついた。
「全く、呆れたお人好しがいたものね。言っておくけど桂、あなたをたぶらかしたのは私よ。小さな子供だったあなたが責任を感じる謂われなどないわ」
 口調は素っ気ないけれど、その言葉はわたしを気遣ってくれたのだと分かる。
「うん。ありがとう、ノゾミちゃん」
「だ、だからっ……。別に礼なんていらないと言ってるでしょう? 私は事実を言っただけですもの」
 そう言ってノゾミちゃんはプイッと顔を背けた。その白い頬に少しだけ朱が差しているのが見えて、なんだか可愛い。
「そ、そんなことより、ミカゲをどうするかを決める必要があるわ」
 ノゾミちゃんの言葉で、わたしも気持ちを切り替えて思考を巡らした。
「……んーと、ね。こういうのはどうかな?
 ミカゲちゃんは多分、わたしの血を欲しがってるはずだよね。主を解放するためにも。だからわたしが遠くへ逃げるようなそぶりを見せれば、ミカゲちゃんはきっと分け身っていうのを使ってくると思う。分身して取り囲まないと逃げちゃうよーって感じで」
 ノゾミちゃんは片方の眉を吊り上げた。
「桂、自分が何を言ってるのか分かっているのかしら? あなた自身を餌にするということなのよ?」
 わたしはノゾミちゃんに向かって頷く。
「それは仕方ないよ。わたしは特別な能力なんて持ってないし、ノゾミちゃんだって《力》を補給できないもん。ある程度の危険は覚悟の上だから」
 けれども、ノゾミちゃんは納得できないように首を左右に振った。ちりり、と足下の鈴が小刻みに鳴る。
「そういう意味ではないわ。仮にミカゲのことを確かめたとして、それがあなたにどういう利があるのかということよ。もしミカゲが主さまの分霊ではないと分かったとしても、あなたには何の関係もないのではなくって? 意味もなく危険に身を晒すのは愚かというものよ。私一人でなんとかするわ」
 言葉はきついけど、ノゾミちゃんはわたしの身を案じてくれているようだった。
「それは……そうなんだけど。でも、わたしだって気になるよ。ノゾミちゃんのことも心配だし」
「見くびられたものね。私は人でないもの――妖なのよ。あなたの助けなんていらないし、むしろ足手まといよ」
「だけど、ノゾミちゃんだって今は《力》を補給できないじゃない。そんな状態でミカゲちゃんと一人で対決しようだなんて無茶だよ」
 わたしの反論に、ノゾミちゃんはぐっと詰まった。根が正直な上に、他人と意見を戦わせるような経験がほとんどないのだろう。
「わたしの力は微々たるものだけど、それでも囮ぐらいにはなると思うよ? ここで自分だけ逃がしてもらうなんて、友達甲斐がなくて嫌だもん」
 更に続けた言葉に、ノゾミちゃんが目を丸くした。
「――とも……だち?」
「あ、うん。……もしかして、厚かましかったかな?」
 とっさに言ってしまった言葉に気を悪くしたんだろうかと尋ねると、ノゾミちゃんはびっくり眼でしばらくわたしを見つめた後、不意に笑い出した。
「ぷっ……あははははっ」
 両目を右手で覆い、体を折って笑い続けるノゾミちゃん。
「の、ノゾミちゃん、笑いすぎ……」
 わたしの抗議は途中で途切れた。顔を覆った手の隙間から、頬を涙が伝い落ちるのが見えたからだ。
 笑い声は次第に小さくなり、くすくす笑いへと変わり、やがて収まった。ノゾミちゃんは顔を覆ったままの姿勢で動かない。
「……ノゾミちゃん?」
 わたしが問いかけると、ノゾミちゃんはくるりとわたしに背を向け、覆っていた手を下ろして夜空を見上げた。きっとその目は、遙かなる高みから淡い光を投げ掛ける月を見ているんだろう。
「千年の間に、人はこうまで変わったの? それとも、私が知らなかっただけなのかしらね?」
 呟くように言ったノゾミちゃんの背中が、とても小さく見えた。
「ノゾミちゃん……」
「もしも千年の昔、私があなたのような者と出会っていたなら……」
 だけど、そこでノゾミちゃんは言葉を切った。尋ねても詮無き問いかけ。結局は起こりえなかった『IF』の話。
 それでも、わたしも想わずにはいられなかった。誰でもいい。お父さんでも、本当の妹さんでも、世話役の人だって構わない。誰か一人でもノゾミちゃんを案じてあげたら、この子が鬼になることはなかったのではないか、と。
 ノゾミちゃんはぐいっと袖で目元を拭うと、わたしの方へ向き直る。
「そうまで言うのなら、あなたにその役を果たしてもらうわ、桂。けれど、危なくなったらフリではなく本気で逃げるのよ。今のところ何か確証があるわけでもなし、命を懸けるほどのことはないもの」
 泣いたところを見られた照れ隠しなのか、ノゾミちゃんは少しぶっきらぼうな様子でわたしに釘を刺した。
「う、うん」
 わたしはこくこくと頷く。
「今一つ信用しかねるけれど、まあいいわ。とりあえず、この先にある良月のところまで行くわよ」
 ため息と共に紡がれる台詞。わたしってそんなに頼りなさそうに見えるんだろうか。ちょっと悲しい。
「分かった」
 応えて、わたしはよっこいしょと立ち上がった。未舗装の地面には小石が散らばっているから、靴を履いてない足の裏が痛い。けれど、さすがに泣き言を言っている余裕はなさそうだ。
「……そうだ。ノゾミちゃん、良かったらわたしの血、飲む?」
 不意に思いついたことを口にしてみるも、すげなく却下される。
「無駄なことよ。私が飲んだ血の《力》は、良月へ行ってしまうのだもの」
「そっか。残念」
 そう上手くはいかないものらしい。名案だと思ったんだけど。
 そのままノゾミちゃんに従ってしばらく歩くと、不意に行く手に人影が現れた。暗くてよく見えないけど、男の人らしい。
「――良月は、あそこにあるわ」
 ノゾミちゃんがその人影を指した。その胸元で光がきらめく。
 更に近づくと、それはスーツ姿の男性だった。虚ろな表情をして、胸に古い鏡を抱いている。わたしはふと先日の朝のニュースを思い出し、背筋が寒くなった。
「の、ノゾミちゃん……。あの人って、もしかして……」
 怖々と尋ねるわたしの声で何を言おうとしたのか察したのだろう。ノゾミちゃんはわたしが言い終える前に答えた。
「あれは単なる傀儡よ。私達に死人を動かす《力》はないもの」
 ノゾミちゃんの言葉に、わたしは少しほっとする。それなら、術が解ければあの人も元に戻れるかもしれない――その前にミカゲちゃんをどうにかする必要はあるけど。
 ノゾミちゃんは男の人に命じた。
「その鏡を、思い切り地面に叩きつけなさい」
 一瞬、えっと思ったけれど、それはミカゲちゃんを呼び寄せるための演技なんだろう。傀儡の人がその言葉に従って鏡を頭上に持ち上げる。金属製とは言え、古い鏡だ。本当に叩きつけたら粉々になってしまうに違いない。わたしがはらはらしながら見ていると、
「叩きつけてはいけない」
 鏡の表面が震えて、ノゾミちゃんと同質でありながら冷たい響きの声が放たれた。
 ――ちりん。
 赤い光が走り、小さな鈴の音が辺りに響く。それに恐れをなしたのか、今まで聞こえていた虫の音が鳴り止んだ。
 そして、ノゾミちゃんを文字通り鏡写しにした少女、ミカゲちゃんが姿を現す。赤光を凝縮したかのように。
「わざわざ贄の血を引く娘を、良月の前まで連れてきてくださってありがとうございます」
 ミカゲちゃんは静かに、感情のこもらない声で言った。けれどもその言葉には、まごうことなき嘲りが含まれている。これが彼女の本性なのだろうか。
「別に、あなたの元に連れてきたわけではないわ。ただ、桂のように脳天気な娘を一人で放っておいたら何をしでかすか分からないのだもの。それだけのことよ」
 憤る様子もなく、ノゾミちゃんはそう答える。演技ではなく、素でそう思っていそうなところが意地悪だ。
 ノゾミちゃんはちらりとこちらを盗み見ると、少し口の端を吊り上げた。
「うー……」
 思わずわたしは抗議の声を上げてしまう。
 そんな二人のやり取りが気に障ったのか、ミカゲちゃんは眉を寄せた。
「……何故、そんなに余裕がおありなのですか? 姉さまの命は風前の灯火だというのに」
 その問いかけに、馬鹿にしたような調子でノゾミちゃんは答えた。
「ミカゲ、あなたは愚かな子ね。私があなたを恐れるはずがないでしょう? 私はいつでも好きなときに、あなたの手の届かない所へ行くことができるのだから」
「あり得ません。姉さまはこの鏡に依り憑いた妖。良月を離れて遠くへ行くことなど――」
 言いかけたミカゲちゃんを、ノゾミちゃんの言葉が遮る。
「あなたはどうだか知らないけれど、私は別の呪物へ依ることができるのよ。そんなことも分からないの?」
「……!」
 ミカゲちゃんは絶句した。予期していなかったことだったようだ。
 そう、考えてみればノゾミちゃんは元々は人間だ。藤原望という《器》から、今の良月という《器》に魂を移し替えたのだった。であれば、今またそれを別の《器》に取り替えることも可能なのかもしれない。
「……ですが、姉さまが依り憑けるような呪物がそう簡単に見つかるとも思えません」
 冷静ながらも、ミカゲちゃんの声には焦りが感じられるような気がする。
「まあ、運が良かったと言うべきでしょうね。そうでしょう、桂?」
「えっ? あ、えっと……うん」
 いきなりノゾミちゃんがわたしに話を振ってきたので、びっくりしながらも慌てて頷いた。思わず胸元に手を当てると、ゴツゴツした感触――部屋を出るときにとっさに持ち出した携帯電話だった。
「贄の血の娘が、何かを隠し持っていたのですか……。ならば、それが何であろうとも壊してしまえば同じこと」
 いい感じにミカゲちゃんは誤解してくれたようだ。
 ミカゲちゃんが手を差し出すと、その上に赤い鬼火が揺らめいた。そして、その光がわたしに向かって放たれる。突然のことで動けないわたしの前に、ノゾミちゃんが割り込んだ。
「――っ!」
 ノゾミちゃんの小さな手が鬼火を受け止め、握りつぶす。その肩の上に一瞬、赤い光が頼りなげに揺らめいて消えた。
「邪魔をしないでください、姉さま」
 無表情で告げるミカゲちゃんを無視して、ノゾミちゃんはわたしに向かって叫んだ。
「桂、ここは一旦引くわよっ。今はこっちが不利だけど、昼間になれば……」
「う、うん!」
 わたしは頷きながらも、曖昧な言葉でミカゲちゃんを挑発するノゾミちゃんに感心してしまった。
 落ち着いて考えれば、今ノゾミちゃんが魂を別の呪物に移し替えてないのは変だと分かってしまう。ノゾミちゃんはミカゲちゃんの冷静さを失わせ、疑う暇を与えないようにしているのだ。さすがは人を惑わす妖、と言うべきだろうか。
 っと、わたしもそんなことを考えている余裕はなかった。
 ミカゲちゃんは目を少し細め、苛立たしげに告げた。
「逃がしません」
 ミカゲちゃんの瞳が輝き、夜の闇を赤い色で染め上げる。
 一対、二対、三対……。真紅の瞳が増殖し、わたしとノゾミちゃんの周囲をぐるりと囲んでいく。そして――
「ノゾミちゃん、見て!」
 わたし達の正面、最初にミカゲちゃんが立っていた場所をわたしは指差した。
 そう、赤く輝く瞳を持った大勢のミカゲちゃん達が居並ぶ中、その正面の一人だけが、悲しそうな表情を浮かべていた。あの部屋で見たことは、やっぱり見間違いじゃなかった。
「ミカゲ……。あなたは、誰なの?」
 それを認めたのだろう、ノゾミちゃんが疑念を口にする。
「もうお忘れですか? 私は主さまの――」
「あなた達に聞いているのではないわ。私が尋ねているのは、そのミカゲよ!」
 口を開いた大勢のミカゲちゃん達を遮って、ノゾミちゃんは叫んだ。彼女達が一斉に、その視線を正面のミカゲちゃんへと向ける。
 全員の注目を集めたミカゲちゃんは目を閉じ、そして開いた。その瞬間、青白い光が周囲に満ちる。ミカゲちゃん達の《力》ではない、別の輝き。
 そう、それは月の光。
「くっ……」
 周囲のミカゲちゃん達が、その光を浴びてたじろいだ。心なしか、その姿が薄れたようにも見える。
 そして正面のミカゲちゃんが、静かに口を開いた。
「お逃げください、姉さま」
 けれど、ノゾミちゃんは首を左右に振る。
「嫌よ。あなたが何なのか、それを知るまではここを離れるわけにはいかないもの」
 その言葉に、ミカゲちゃんは悲しげに目を伏せた。
「私、私は……」
 言葉を切り、ノゾミちゃんを再び見つめてミカゲちゃんは続ける。
「私はずっと姉さまと共にあったもの。姉さまの御影。姉さまと同じ銘を持つもの。
 私の真の名は――良月」
 ……そうだったんだ、とわたしは理解した。つまりこのミカゲちゃんは、付喪神なのだ。
 日本の古い言い伝えでは、歳経た器物はいつしか妖怪と化してしまうのだとされている。それが付喪神だ。元々は『白髪』の『白』という文字を、『百』の上の棒一本が抜け落ちたものと見なして『九十九髪(つくもがみ)』と読み替えた言葉遊びが語源らしい。それがいつしか長い時間を表すようになり、器物がやがて魂を持つことになるという伝承と結びついたのだろう。
 確か、鏡は百年を経ると雲外鏡という妖怪になるはずだ。何かの本で読んだことがある。だから、千年以上の昔から存在する良月が妖になっていても不思議じゃない。
 そんな風にわたしが考えている間にも、ノゾミちゃんとミカゲちゃんのやり取りは続いていた。
「……あなたが良月だと言うのなら、他のミカゲは何なのかしら?」
 ノゾミちゃんが問うと、ミカゲちゃんが静かに答える。
「私は姉さまのものです。私の全ては、姉さまのために存在します。姉さまが私に依り憑いてくださる前から、そして共にいられるようになってからも。
 けれども、主さまを失って悲嘆に暮れる姉さまを前に、私には為す術がありませんでした。その苦しみを癒して差し上げる力を、ただの鏡である私は持たなかったのです。
 ですが私の中には、姉さまだけではなく主さまが植え付けられた分霊も存在しました。私は現身を成す技と引き替えに、分霊に力を貸すことにしたのです――それが分霊の奸計なのだとも知らず」
 ミカゲちゃんの言葉で、わたしは思い出した。幽閉されていたときに、ノゾミちゃんが誰かに見られているような気配を感じていたことを。あれはまだノゾミちゃんが主と出会う前のことだから、分霊であるはずはない。きっと良月自身がノゾミちゃんを見つめていたのだろう。
「そう……。いいわ、信じてあげる」
 ノゾミちゃんは頷いた。彼女も納得したようだった。
 ミカゲちゃんは切ない表情でノゾミちゃんに訴える。
「どうかお逃げください、姉さま。
 私が分霊の力を抑えられたのは、その不意を突いたからです。長くは保ちません。今のうちにここを離れ、分霊の力が及ばぬ所へ早く」
「……嫌よ」
 けれどもまた、ノゾミちゃんはミカゲちゃんの勧めを拒否した。
「あなたが私を謀ったのではないのなら、むざむざ分霊なんかに渡したりするものですか」
「ですが姉さま……! 私は本当は、あなたの妹ではありません。ただの鏡、依代に過ぎないのです。どうか贄の血の娘が持つ呪物に依り憑き、私のことはお忘れください」
 言い募るミカゲちゃんに、ノゾミちゃんは穏やかに笑った。
「全く……。ミカゲ、あなたは本当に不出来な子ね」
 言葉とは裏腹に、その声は温かかった。
 だから、わたしには分かってしまった。大して根拠のないわたしの話に付き合ってくれたノゾミちゃんの心が。
 ノゾミちゃんは、ミカゲちゃんを信じたかったのだ、と。
 だけどその直後、今まで凍り付いたように動かなかった周囲のミカゲちゃん達が、その指をぴくりと震わせた。良月のミカゲちゃんの顔に焦燥の色が浮かぶ。
「姉さま、お願いです。私にはこれ以上、分霊を抑えておくことは無理なのです。間もなく私は分霊に封じられてしまうでしょう。どうか、今のうちに……」
 現実問題として、今ここで分霊と事を構えるのは得策じゃない。ノゾミちゃんは力の源を絶たれているし、良月のミカゲちゃんも限界みたいだ。分霊が勘違いしてくれた呪物はハッタリで、ただの携帯電話だし――わたしはそもそも戦力外。
「ノゾミちゃん。ミカゲちゃんの言う取り、一旦ここを離れよう。良月が壊されちゃうことはなさそうだし――」
 ――それに、烏月さん達に助けを求めれば、もしかしたら。
 続く言葉をわたしは飲み込んだ。烏月さんの性格からして簡単にいくとは思えないし、分霊に聞かれるのもまずいから。
 ノゾミちゃんは顔をしかめ、そして頷いた。
「……分かったわ。今はあなた達の言う通りにしてあげる。
 でも、私は逃げるつもりなんてさらさらないもの。ミカゲ、あなたを分霊の手から必ず取り戻してみせるわ」
「姉……さま……」
 毅然と言い放つノゾミちゃんは、なんだか格好いい。それを見つめるミカゲちゃんの瞳が潤んだ。
「きっと助けに来るからね、ミカゲちゃん」
 わたしがそう言うと、良月のミカゲちゃんはちょっとびっくりしたように目を見開き、それからわたしに向かって頭を下げた。
「姉さまを、お願いします」
「うん」
 どっちかと言うと、わたしの方がノゾミちゃんの負担になっているような気もしたけど、素直に頷いておく。
「さあ、行くわよ桂! ボサッとしている暇なんてないわ」
「わっ……」
 ノゾミちゃんはまたわたしの手を取ると、今度は逆方向に走り出した。凍り付いている分霊のミカゲちゃん達の脇をすり抜けると、その目だけがわたし達の後を追うように動く。背中に視線を感じながらも、わたしはノゾミちゃんに遅れないよう懸命に足を動かした。
「の、ノゾミちゃん……はぁっ……どこに、向かって……」
 走りながらなので上手く言葉にならないが、ノゾミちゃんはわたしの言いたいことを汲んでくれたようだ。
「とりあえず、分霊が行動できなくなる夜明けまでが勝負よ。正面切って戦うのは難しいから、何とかしてやり過ごす必要があるわ。
 忌々しいけれど、ここは鬼切り役か観月の娘に頼る他なさそうね」
 ノゾミちゃんもわたしと同じことを考えていたようだ。わたしは頷くと、走ることに専念した。
 田んぼ沿いの舗装されていない道を、わたしとノゾミちゃんは疾走する。ノゾミちゃんは滑るように、小さな鈴の音を後へ残しながら。わたしはと言えば、疲労と足の裏の痛さでへとへとになっていて、軽やかにはほど遠い。
 周囲は真っ暗で、明かりは天にある月と星ぐらいしかなかった。水田に植えられた稲が風でそよいだだけでも、怖くて足が竦みそうになる。だけど、ここで足を止めたらそれこそ分霊のミカゲちゃんに捕まってしまう。
(がんばれ……がんばれ、わたし……)
 自分を叱咤しながらわたしは走り続けた。
 けれども、舗装されていない夜道を素足で走るのは、都会育ちのわたしには無謀なことだった。何か鋭く硬いものを踏みつけ、激痛が足の裏から伝わってくる。
「……っ!」
 バランスを崩し、転倒してしまうわたし。手を繋いでいたノゾミちゃんが、つんのめるように急制動をかけられた。
「何してるのよ、桂! はやく……」
 促そうとしたノゾミちゃんの声が途切れる。わたしの足の裏から血が流れ出しているのに気付いたのだろう。そばには、月明かりを受けて光る透明なガラス片――そのせいで怪我をしてしまったらしい。
「大……丈夫。急がないと、ね」
 わたしは苦痛をこらえて立ち上がろうとした。でも、足に力が入らない。体力の限界が来てしまったみたいだ。
「……ごめん、ちょっと無理みたい。せめて、ノゾミちゃんだけでも逃げて」
 そう言ったわたしを、ノゾミちゃんが叱りつける。
「馬鹿っ。そんなわけにいくものですか! 私一人逃げたって――」
「――もう、鬼ごっこはおしまいなのですか?」
 ノゾミちゃんの台詞を遮り、声が聞こえた。同じ声質なのに、静かで底冷えのする声だった。
「分霊……」
 走ってきた方を振り返り、ノゾミちゃんが口惜しそうに呟く。
 ノゾミちゃんの鏡像であるミカゲちゃんの姿がそこにあった。もはや分身していないのは、その不利を悟ったためだろうか。どちらにしても、わたし達に勝ち目はないんだけど。
「もう、『ミカゲ』とは呼んでくださらないのですか? 今までのように。飼われているとも知らぬ気に」
 その表情は変わらない。でも、だからこそ言葉に込められた悪意が一層強められ、ノゾミちゃんの心を抉る。
「このっ……!」
 挑発に乗せられたノゾミちゃんが、分霊へ飛びかかろうとした。
「駄目っ、ノゾミちゃん!」
 わたしの制止は間に合わず、分霊のミカゲちゃんから放たれた赤い光の筋がノゾミちゃんの肩を貫く。
「……ぐっ!」
 ノゾミちゃんは攻撃を食らって、道ばたに倒れた。その輪郭が一瞬揺らいだように見えたのは気のせいだろうか。
 ううん、多分気のせいじゃない。ノゾミちゃんは霊的な存在だ。その力を失えば、存在することができなくなってしまうのだろう。
 分霊は倒れたノゾミちゃんに一瞥をくれた後、わたしに目を向けた。
「贄の血を無駄に流すなど、なんと勿体ないことを……」
 わたしの足の裏から流れる血を見て、分霊のミカゲちゃんがため息をつく。
「そのようなことが二度と起こらぬよう、私が搾り取ってあげましょう。一滴残らず」
「ひっ……」
 赤く光る邪眼に魅入られ、わたしの体が硬直した。逃げることも、叫ぶこともできない。
 分霊がすっと手を挙げ、わたしに手のひらを向ける。絶体絶命となったそのとき、
「させないわ!」
 凛とした声が響き渡り、わたしと分霊の間に青い光が割り込んだ。光が凝縮し、それは蝶柄の青い着物を纏った女性の姿へと変化する。
 わたしを鬼から守ってくれた不思議な人、ユメイさん――ううん。
「柚明……お姉ちゃん……」
 その肩がぴくりと震えるのが見えた。振り向かず、柚明お姉ちゃんは穏やかな声でわたしに問う。
「――思い出してしまったのね、桂ちゃん」
「うん。ごめんね……ごめんね」
 謝ったって許されることじゃない。わたしの軽はずみな行動のせいで、柚明お姉ちゃんは人ならざるものに変わってしまったんだろうから。
 それでも、お姉ちゃんはわたしを責めたりはしなかった。
「いいのよ、桂ちゃん。これはわたしが自分で望んだことだから。桂ちゃんが気に病む必要なんてないのよ。
 それに、今はそのことを話している時間はないわ。後でゆっくりお話ししましょう」
「う、うん」
 わたしは柚明お姉ちゃんの言葉に頷いた。
「……『後』などという時間が訪れるとお思いとは、大層楽天的なのですね」
 分霊のミカゲちゃんが静かな声で辛辣な言葉を呟き、そして同時に赤い光弾をこちらに向けて放った。闇を切り裂き、禍々しい赤がわたし達へと迫る。
 けれども柚明お姉ちゃんは動じることなく、光の蝶でそれを迎え撃った。閃光とともに、光弾が蝶によって相殺され、消滅する。
「ぐっ……。この、よくもっ!」
 倒れていたノゾミちゃんが、肩を押さえて苦痛をこらえながら身を起こした。それに気付いた柚明お姉ちゃんがノゾミちゃんへ蝶を差し向けようとしたのを、わたしが制止する。
「柚明お姉ちゃん、待って! ノゾミちゃんは、その子は味方なの!」
「桂ちゃん?」
 柚明お姉ちゃんは戸惑った様子で、偽りの双子を視界に納めたまま尋ねてきた。その疑問に、ノゾミちゃん自身が答える。
「味方かどうかは別として、今は桂に危害を加えるつもりはないわ。ハシラの継ぎ手、あなたには私を信じる謂われなどないでしょうけど」
 ノゾミちゃんもまた、柚明お姉ちゃんが今の姿になったことに関わっているはずだ。それを考えれば、お姉ちゃんにノゾミちゃんを信頼してもらうのは難しいかもしれない。
「本当なんだよ! ノゾミちゃんは、あのミカゲちゃんにずっと騙されてきたの。だから……」
 それでも、ノゾミちゃんに責がないとは言えなかった。柚明お姉ちゃんはこの二人に運命を翻弄されてしまったのだから。
 少しの沈黙の後、静かな声で柚明お姉ちゃんは言った。
「分かったわ、信じます。けれど、もし桂ちゃんの信頼を裏切るようなことがあれば、そのときは決して許さないわ」
 ノゾミちゃんは不敵な笑みを浮かべた。
「私は鬼よ。向けられる憎悪も怒りも私を縛りはしない。だけど――そうね。今なお私を形作る魂、その矜持に賭けて桂を傷付ないと約束するわ」
「いいでしょう」
 柚明お姉ちゃんが頷く。そして、分霊へ向かって手を差し出した。
 手のひらの上に光が生まれ、それは蝶となって羽ばたいた。ひとつ、ふたつ――。
「……あなたは考えを改めるつもりはないようね」
 柚明お姉ちゃんの言葉に、分霊のミカゲちゃんは目を細め、冷たい声で逆に問い返した。
「私が何故、そのようなことをせねばならないのです? 姉さまの力は残りわずか、継ぎ手のあなたも恐るるに足りません――」
 カッと目を見開いた瞬間、周囲が禍々しい邪気に包まれる。
「――贄の血をたっぷりと頂いた私にとって」
 夜風の温度が一気に下がった気がした。月明かりに代わって赤の光が満ち、邪悪な気配が漂う。それは圧倒的な力の示威だった。
 それでも、柚明お姉ちゃんは怯むことなく分霊に対峙する。
「桂ちゃんの血を奪ったのね」
 穏やかな声の中に硬質の怒りを忍ばせ、お姉ちゃんは分霊に向かってそう言った。
「ええ、大層甘美な味でした。でも、まだまだ飲み足りません。主さまをくびきからお救いするためにも、更に力をつけなければ」
 表情を変えない分霊のミカゲちゃんの目に、わずかに貪欲な色が見えた。
 わたしの血ってそんなに美味しいんだろうか、などと場違いな考えが頭に浮かんでしまった。指を切ったときとかに自分の血を舐めたことならあるけど、他の人の血と変わっているとは思えなかったし――って、そもそも他の人の血を舐めたことなんてないけど。
「そんなこと、させるわけにはいかないわ」
 毅然と言い放つ柚明お姉ちゃん。槐の花が舞うように、無数の光の蝶がその周囲を飛び交う。
 と、そこでノゾミちゃんがわたしに近づき、小声で話し掛けてきた。
「桂、今のうちに呼び寄せるのよ」
「えっ?」
 思わず尋ね返すわたしに、ノゾミちゃんは眉を寄せた。
「だから、今のうちに鬼切り役か観月の娘を呼びなさいな。今の世にはそういう便利なものがあるのでしょう?」
 言われて、ようやく気付いた。確かに、戦力外のわたしが役に立てることと言ったらそれぐらいだ。
 わたしは慌てて懐から携帯電話を取り出す。烏月さんには連絡が取れないけど、サクヤさんなら……。
 携帯電話のボタンを押していると、分霊のミカゲちゃんがそれに気付いてわたしに目を向けた。そして、かすかに頷いて呟く。
「なるほど。その青珠が姉さまの新しい依代というわけですか」
 それを聞いて、思わず「あっ」と驚きの声を上げそうになり、慌ててわたしは手で口を覆った。ちらっと隣を見ると、ノゾミちゃんもびっくりした様子で目を丸くしていた。
 確かにこのストラップの先に付けた青い珠なら、ノゾミちゃんが依り憑く呪物となり得るのかもしれない。まさに瓢箪から駒と言うべきだろう。
「……まあ、見つかってしまったのなら仕方ないわ。だから言ったでしょう? あなたは愚かなのだと」
 すぐに気を取り直し、分霊に冷ややかな笑みを向けるノゾミちゃん。
「認めましょう。確かに、私はその可能性を考慮してはいませんでした。ですが」
 分霊のミカゲちゃんは袂で顔を半分隠した。表情は変わらないのに、不思議とノゾミちゃんを嘲っているような印象になる。
「無意味なことです。姉さまはこの地を離れることはできません。何故なら――姉さまは良月を欲しているのですから」
「くっ……」
 見透かされたノゾミちゃんが、悔しそうに歯ぎしりする。
 そのとき、ようやくコール音が途切れ、携帯から声が聞こえてきた。
「桂、何かあったのかい?」
「さ、サクヤさん! 大変なの、ノゾミちゃんとミカゲちゃんが……」
 言いかけたところで、サクヤさんが尋ねてくる。
「細かい話は後でいいっ。それより、今どこにいるんだい?」
「えっとね、さかき旅館を出てから……」
 うろ覚えながらも、ノゾミちゃんに手を引かれて走った夜道を思い出し、サクヤさんに伝えた。
「分かった。今すぐ行く!」
 そして直後、携帯電話から風を切るようなゴウッという音が聞こえてきた。
「サクヤさん? サクヤさん!」
 返事はない。電話は切れてないみたいだけど……。
 でも、よく考えたらサクヤさんは普通の人だ。色々と特技を持っている人ではあるけど、こんな場面に呼び出してしまったのは良くないんじゃないだろうか。
 そんなことを考えていたら、不意に背後から地を蹴る音が聞こえてきた。振り返ろうとしたその瞬間、わたしは力強く誰かに抱え上げられた。
「……! サクヤ、さん」
「どうにか、今度は間に合ったようだね」
 さっきまで電話で話していたのに、どうして――と聞こうとして、わたしは違和感に気付いた。
「サクヤさん、その目……」
 サクヤさんの瞳はまるで猫のように縦に裂け、虹彩が爛々と琥珀色に輝いていた。その耳も、普段とは形が違う。
「ああ、これね。あたしは、ちょいとばかり普通の人間とは違うのさ。……怖くなったかい?」
 サクヤさんはそうわたしに尋ねた。その声に少し寂しさの色を感じ取り、わたしは慌てて首を左右に振った。
「ううん、そんなことないよ。だって、サクヤさんはサクヤさんだもん」
「そうかい。そいつは嬉しいこと言ってくれるねえ」
 サクヤさんはほっとした様子で笑みを浮かべた。そして、
「で、そこにいるのはユメイと……例の双子の鬼か。ほんと、しつこいったらありゃしないよ」
 前にいる三人を見て、ため息をつく。
「……双子ではないわ」
 ノゾミちゃんがその声に抗議するように呟いた。
「あん?」
「だから、双子ではないと言っているのよ。あれはずっと私の妹のフリをしていた、主さまの分霊だったのだから」
 サクヤさんはそれを聞いて、口の端を吊り上げた。
「そりゃ、みっともない話だねえ。自分のあるじに騙されて、いいようにこき使われてきたってわけかい」
「サクヤさん! そんな言い方ってないと思う」
 わたしがたしなめるのを、ノゾミちゃんが制した。
「構わないわ、桂。観月の娘が言うことは本当だもの」
 サクヤさんはわたしを抱きかかえるのと逆の手で、面倒そうに髪を掻き上げた。
「なんとなく事情が見えてきたよ。つまり桂、あんたはノゾミの方に肩入れしちまってるわけだ。
 でも、この鬼どもが今まで何をしてきたのか、あんたは理解してるのかい?」
「あ、うん。ノゾミちゃんの記憶を少しだけ見せてもらったから」
 わたしは頷く。
「本当に甘ちゃんだねえ。……で、そっちのあんたはどうするつもりさ?」
 サクヤさんは分霊のミカゲちゃんに声をかける。
「消えかけの姉さまに、大した力もない柱の継ぎ手、出来損ないの観月の民。そのような者達をいくら集めようとも、私が後れを取るはずなどありません」
 あくまで傲慢な態度を崩さない分霊に、ノゾミちゃんがくすりと忍び笑いを漏らした。
「本当に愚かね、あなたは。こうして観月の娘がここに来たことで、一番の足手まといが片付いたと分からないの?」
 その言葉で、分霊のミカゲちゃんの瞳が狼狽に揺れた。
 一番の足手まといって……もしかして、わたし?
「桂。その青珠、少し借りるわよ」
「あっ……」
 ノゾミちゃんの姿がすっと薄れ、携帯ストラップに付けられた青い珠へと吸い込まれていく。
「逃がしは……」
 言いかけた分霊に、白い蝶が躍りかかる。
「邪魔はさせないわ。
 桂ちゃん、サクヤさん、わたしがこの子を足止めするから、二人は早く逃げて!」
「柚明お姉ちゃん!」
 月明かりを浴び、光の蝶を従える柚明お姉ちゃんの後ろ姿は、息を飲むほどに綺麗だった。
「……分かった。だけど柚明、あんたも無茶するんじゃないよ。程々で充分なんだから」
 サクヤさんが柚明お姉ちゃんの言葉に頷いた。
「でも、サクヤさん!」
「細かいことは後っ。さあ、飛ばすからしっかり掴まっときな。喋ったら舌噛むよ!」
 わたしの抗議を無視してサクヤさんは叫び、そして体を翻す。もの凄い勢いでわたしの体は振り回されたけど、サクヤさんがしっかり抱きかかえてくれているから振り落とされることはなかった。
 浴衣の裾をひらめかせ、サクヤさんは大地を蹴った。途端に、猛スピードでわたしとサクヤさんはその場から遠ざかり始めた。電話で話した直後にサクヤさんがここへ到着したのも頷ける。凄い身体能力の持ち主なのだ、サクヤさんは。
 そしてわたしは、サクヤさんの肩越しに小さくなっていく柚明お姉ちゃんの後ろ姿を見つめながら、願った――どうか柚明お姉ちゃんが無事でいますように、と。

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