『……では、余はそなたに命ずる。母上の元まで余を案内せよ』
『衛門正八位大志柳也。神奈備様が命、違えぬ事を誓約致し候。……礼儀だからな、一応だ』
『あいわかった。諸処万端に務めよ』
そんなやり取りから始まった、命懸けの逃避行。あれから半年が過ぎようとしている。
――ビュオオオオオッ
風が雪を巻き上げ、視界が白く閉ざされていた。昼だというのに空は暗く、周囲を確認することもままならない。
吹雪の立てる音はあたかも獣の遠吠えのようだった。その獣が上げ続けるのは怨嗟の叫びか、はたまた嘆きの声か。どちらにせよ、それは悪意を持った白き壁となって俺達の行く手を阻む。
ちらりと隣を見ると、さしもの裏葉もこの雪嵐には難儀しているようだった。決して泣き言を言わない裏葉だが、この風と寒さの中ではただ立っているだけでも体力を消耗する。どこかで休ませてやりたかった。
けれども、俺達は既に拠り所を失って久しい。果たして進むべきか退くべきか、それすらも分からなくなっていた――愚かしいことに。
と、言うか……
「ここは、どこだ?」
「この、大うつけがあっ!」
思わず漏れた俺の言葉に、スパーンと後ろから突っ込みが入った。
「……何をする、神奈」
ずれた笠を直し、俺が後ろ頭を擦りながら振り向くと、綿入れで着脹れた神奈がこちらを睨んできた。
「柳也どのが、たわけたことを申すからであろうが。何ゆえ余がこのような苦行を強いられねばならぬ」
その物言いはもっともなことではあったので、俺は話を逸らした。
「……まあいい。それより、お前が持っているのは何だ?」
「これか?」
神奈はその手に携えていた長物を俺の前に差し出した。大きな紙を蛇腹折りに畳んだ、巨大な扇のように見える。それで俺の頭をはたいたのだろう。
「知らぬ。いつの間にやら手の中に現れたのだ」
そうして話しているうちに、その扇は神奈の手の中から掻き消すように消えた。
「恐らく神奈さまが柳也さまに突っ込みを入れたいと強く願ったとき、その想いが天に通じたのでございましょう」
裏葉が解説する。嫌な通じ方だった。
「神奈、出すならもっとマシなものを出せ。屯食とか」
「無理を言うでない。余にはそのような芸当はできぬぞ」
俺の要求に神奈は顔をしかめた。そう上手くはいかないものらしい。
「……柳也さま。雪の勢いが少し弱まってまいりました」
裏葉に告げられて周囲を見渡すと、成程先刻よりも周囲の見通しが利くようになってきていた。
俺は目をすがめ、前方に大きな影がうっすらと見えることに気付いた。
「何か、そこにあるな」
「何でございましょうか……」
裏葉と神奈を後ろに庇いながら、そろそろとそちらに近づく。
それは建物だった――いや、かつて建物であったものと言うべきか。剥げかけた朱塗りの柱に薄汚れた白土の壁、瓦を葺いた屋根。かなりの大きさらしく、雪の中で全てを見通すことはできない。しかし、それは明らかに倒壊し、残骸と成り果てていた。
「これは――羅城門?」
朱雀大路の南端にあり、内と外を隔てる大門、羅城門。
「……って、都ではありませんか!」
俺は再びスパーンとはたかれた。今度は裏葉からの突っ込みだった。
「おお、裏葉もその扇を召還することができたか」
神奈が感心したように言う。
「はい。柳也さまのあまりの腑甲斐無さに呆れ果てましたところ、手の中にこれが」
「そうであろう、そうであろう。誰かを張り倒したくなったときに天が遣わす扇、余はこれを『張り扇』と名付けようぞ」
「まあ。それはまことに体を表す名」
どうでもいいことで盛り上がる二人。それは兎も角、気のせいか一行の中における俺の地位が秋の陽の如く急落しているような……。
「しかし、南の社に向かった筈の俺達がいつの間に京の都へ辿り着いたのか」
何気なしに呟くと、冷ややかな目をした神奈がずばりと言った。
「方向音痴なのであろ」
「ぐっ……!」
あまりに直截なその言葉が、俺の胸を抉る。
「神奈さま。そのように人の短所を直接指摘してはなりませぬ。柳也さまは単に、案内という役目に関して能のないだけにございます。それを一事が万事、格好ばかりの腑抜けだとか、肝心なところで益体なしだとか、仮に思ったとしても口に出さぬのが礼儀かと」
神奈をたしなめる風を装いながら、更に俺へ追い打ちを掛ける裏葉。ちょっと泣きたい。
思えば裏葉が街道沿いに進むことを提言したとき、俺はそれに頷くべきだったのだろう。何故だか俺はその意見を受け入れる気になれず、結果として山の中を迷いに迷ってしまい、こんな場所に辿り着いてしまったわけだが……。
それもこれも、俺の行く手を阻んだカラスのせいに違いない――鳥に責任をなすりつけ、俺は心の平穏を得ることに成功した。
「しかし、これが噂に聞く羅城門とはの。何ゆえこのような無惨な姿で放置されておるのだ?」
神奈を惹き付ける何かがあったのか、興味津々といった様子で門に近づこうとする。俺はそれを咎めた。
「神奈、門にはあまり近寄るな」
「む、何か問題があるのか?」
無邪気に尋ねてくる神奈に俺は説明した。
「見ての通り崩れかけだからな。近寄るのは危険だ。第一、俺達は人目を忍んでいるのだから、帝の御所に近いこんなところで人に見つかるのはまずい。それに……」
「それに?」
言い淀んだ俺の言葉を、裏葉が継いだ。
「それに、この門はあまり清潔ではないのです。色々と無断でうち捨てられるモノが多く、常に悪臭が漂っているとか」
「なんとっ。天下の都の正門とあろうものが、ごみ捨て場と化していると申すのか。実に嘆かわしい」
神奈は眉をひそめ、呆れるように言った。さすがは裏葉、嘘ではないものの上手く神奈をごまかしている。
実際のところ、羅城門にうち捨てられているのは『物』と言うより『者』、つまり死者だった。葬式を出せないほど貧しい者が、この門に死体を放置していくのだ。特に一昨年には疫病により多数の死者が出たため、文字通り死屍累々といった有様であるらしい。そうしたことに疎い神奈にはできれば見せたくはなかった。
「まあ、正門と申せど外つ国の大使をお迎えするような大事でもなければ使い道のない飾りでございますから、唐との行き来も途絶えた昨今では無用の長物でございましょう」
「ふむ。しかし、それならばせめて放置せず片付ければいいものを」
裏葉の説明にも不服そうな神奈だった。
「その価値もないと判断されたんだろうな。それよりも、こんなところに長居は無用だ。今は雪のおかげで誰にも見つからずに済んでいるが、いつ朝廷の手の者に……」
言いかけたところで俺は口をつぐみ、前に進み出て神奈を後ろに庇った。右手を太刀の柄にかける。
「柳也どの?」
俺の動作の意味するところが分からなかったのか、神奈が尋ねてきた。
「羅城門の陰に……誰かいる」
京には珍しいほどの吹雪の中、半壊状態の門に隠れているのがただ者であるとは考えづらい。野盗か、はたまた羅城門に巣くうと言われる亡者や鬼のたぐいか。
俺が刀をいつでも抜けるよう構えていると、舞い散る雪の向こうから声が聞こえた。
「わしの気配を察するとは、なかなかに手練れの士のようじゃな」
しわがれた声がして、人影が姿を現した。
現れたのは、かなりの高齢に見える老人だった。天候に似合わぬ薄着のまま、杖を突き突き老人は近づいてきた。
にこやかな表情はいかにも好々爺然としているが、油断はできない。その足取りは確かで、年齢を感じさせなかった。杖はこちらを油断させるための演技かもしれない。
「そ……祖父上様っ」
しかし、老人の顔を見た途端に裏葉が驚きの声を上げ、笠を取ってその場にひれ伏そうとした。それを老人は手振りで制する。
「よい、よい。このように寒い日、女子が腰を冷やすのはうまくないからの。それに、おぬしはわしに礼を取る必要がないことに気付いておろう?」
「は、はい。ですが、それはまた別の話でございますから」
裏葉と老人のやり取りは今一つ分からない。結局、裏葉は膝を突かずにその場で老人に頭を下げた。
「改めまして――祖父上様、お久しぶりにございます」
「うむ、二年ぶりかのう。裏葉も元気そうで何よりじゃ。また一段と、わしの母に似て見目麗しゅうなってきたの」
「ありがとうございます」
目を細めて鷹揚に笑う老人に、裏葉は嬉しそうに頬を染めた。こんなに素直な裏葉は初めて見る。
「そなたは裏葉の祖父君であるのか?」
背後に庇った神奈が、老人に向かって問いかけた。
「いかにも。この裏葉のむつきを手ずから取り替えてやったこともありますぞ」
「祖父上様っ、そのようなことまで話されなくとも……」
裏葉がますます赤くなって慌てた。
「それゆえ、そう警戒することもあるまいよ。危害を加えたりはせぬからの」
老人は俺に向かって片目を瞑った。
俺は右手を柄から離すと、老人に向かって軽く頭を下げた。もっとも、左手はまだ鞘に添えたままにしておく。この老人、どこか得体の知れないところがある。
「俺は柳也と申す者。裏葉と、そして……えー、この墨壺と一緒に三人で旅をしているところだ」
適当に名前をでっち上げて紹介したところ、思いっきり神奈に足を踏まれた。
「……何をする」
「それはこちらの台詞であろうが! 余は大工道具ではないぞっ」
「仕方がないだろう。咄嗟に思い付かなかったんだから」
小声で言い争う俺達をよそに、老人は「ふむ」と頷いていた。
「……墨壺と申されるか。それはなかなかに良い名やもしれませぬ」
「ええええっ!?」
思わず声を重ねる俺と神奈。
「それは兎も角、祖父上様は敦賀へ出向かれていらしたと思うのですが、いつ都へお戻りに?」
俺達の反応を軽く流し、裏葉は自分の祖父に尋ねた。
「なに、つい先日じゃよ。敦賀では天文、地文の研究をしておったのじゃが、近頃わしがおらぬのを幸いと良からぬことを企む輩がいるらしくての。少しばかり目を光らせるために、こうして戻ってきた――」
難しい表情で話していた老人は、突然そこで相好を崩した。
「――と言うのは建前じゃ。実は、こっそりと書きためてきた物語がそこそこの量になったので、なんとか世に出せぬかと思うてのう」
「む、祖父君は物語を紡がれるのか?」
目を大きく見開いて神奈が問うと、老人は照れたように頭を掻いた。
「いやいや、所詮年寄りの手習いに過ぎませぬ」
「して、どのような内容なのだ?」
「それでは、お耳を拝借……」
老人はこちらに近寄ると、神奈に耳打ちする。近くなので、必然的にその内容は俺と裏葉にも聞こえてきたが。
「ふむ……ふむ……」
「ごしょごしょ――」
「……む?」
「ごしょ――」
「むむむっ……」
「って、そりゃ艶話だろうがっ!」
相手が誰かを失念し、俺は老人に手刀で思いっきり突っ込みを入れようとした。しかし、老人は難なくそれをひらりと躱す。
「なんの、いつの世も色事こそが心打つものの本質なのじゃよ」
ニッと笑ってから、
「……とは言うものの、わしにも少しばかり世間体というものがあるからのう。さすがに己の名で世に送り出すのはきまりが悪い」
と、顔をしかめて老人は続けた。
「まあ、祖父上様ほどのお立場であれば……」
裏葉が苦笑気味に同意した。
「かてて加えて、爺いの書いた艶話など誰が読むのかという問題もある。おぬしとて、書き手がわしと知ったら萎えるであろう?」
老人は俺に話を振った。今度は俺が苦笑する番だ。
「いや、そこは切り離して考えればいいことだと思うが」
俺の答えに、老人は感心したように頷いた。
「ふむ……。さすがは士、妄想の力も並外れておるようじゃな」
ふと傍らを見ると、神奈と裏葉が微妙な表情をこちらに向けていた。俺の地位が更に低下したように感じるのは気のせいだろうか。
「なれど、おぬしほどの妄想を皆が持つわけではないからの。そこで、じゃ。わしは身代わりを立てようと思うておる」
「身代わり……とは、どういうことなのだ?」
神奈が老人に尋ねた。
「つまり、若い女子を代わりに立て、その娘が話を書いたことに致しまする」
「しかし、それでは祖父君がまことの作者だと誰も知らぬことになりはせぬか?」
「構いませぬ。老い先短い身、この上名声など望んでも詮無きこと。それよりは、せっかくしたためた話を多くの者に読んでもらう方が良いですからのう」
老人は皺めいた顔を笑みで更にくしゃくしゃにし、いかにも楽しそうにそう答えた。
「……若い娘を表向きの作者にするとは、少しあざとくはないか?」
思わず俺の口からこぼれた言葉に、しかし老人は気を悪くする風もなく、笑みを少々人の悪いものへと変化させる。
「左様、否定はせぬよ。しかし、これも勝負じゃからな」
「勝負とは、どういうことでございましょう?」
裏葉が尋ねると、老人は重々しく頷いた。
「さるやんごとなきお方に仕える、気の強い女房がおっての。その者が、下賜された料紙に日々思ったことを書き連ねておるそうなのじゃ。当人は人目に晒すつもりはないようじゃが、わしの見るところ近いうちに世に出ることになろうて。
されど、わしとしては『萌え』の台頭をただ指を咥えて看過するわけにもゆかぬ」
「『萌え』……ですか?」
聞いたことのない言葉に、裏葉が困惑する。俺と神奈も同様だった。
「『萌えいづる』の『萌え』、『萌黄色』の『萌え』の字を取ったものじゃよ。これより千年の後、この国で新たに生まれるであろう言葉でのう。今で言うのなら、『をかし』の意じゃな」
千年後というのは少々聞き捨てならなかったが、『萌黄色』で俺はふと、裏葉が社殿で着ていた唐衣の色を思い出した。海松の丸をあしらった、目にも涼しげな色合いの衣だったが、あれが老人の言う『萌え』とやらなのだろうか。
「その女房は、やれ『女童が前髪を掻き上げず、首を傾げて向こうを見ようとしているのが愛らしい』だの、やれ『鶏の雛がピヨピヨ鳴いて後をついてくるのが可愛い』だのといったことを、とりとめもなく書き綴っておるらしい。
無論わしもそれを否定などせぬが、さりとてそのように軽薄なものばかりでは満足できぬ。もっとこう、本能を揺さぶられるような濃いものが欲しいのじゃよ。ほれ、おぬしも男ならば分かるじゃろう?」
いきなり俺に同意を求める老人。
「ん? んー。まあ、分からんでもないと言うか……」
肯定するのも否定するのも差し障りのある話題をこっちに振らないで欲しいと思う。
「成程……。柳也どのはもっと濃い趣向を望んでおったのか。道理で一向になびかぬわけよの」
「柳也さまはいささか益体なしなのでございましょう。なれば、わたくしにも新たな策が……」
「うむ、裏葉はまことに忠義者よ。手筈は全てそなたに任せるぞ」
何やら密談を交わす神奈と裏葉の二人。丸聞こえだったが。
「わしの書く『あはれ』が勝つか、それとも女人の綴る『をかし』が勝つか――この国の行く末を決める勝負なのじゃ。多少あざとかろうと、負けられぬよ。
代理の書き手も、既に知り合いの漢詩人の娘御に了解を得ておる」
「それなら、あとは書き上げて世に出すだけということか」
「……いや、それがのう。今、少々行き詰まっておるところでの」
と、老人は困ったように言い、左手で顎を撫でた。
「『行き詰まって』とは、祖父上様の書かれている物語が、でございますか?」
裏葉の言葉に、老人は「うむ」と頷く。
「主人公が亡くなるくだりを書こうとしているのじゃが、どう料理したら良いものか考えあぐねておる。わしとしては、因果応報とばかりに苦しみ抜いて死ぬ展開にしたいところではあるのじゃが……」
「それはいくらなんでも悪趣味だろう」
俺が指摘すると、老人は苦虫を噛み潰したような表情になった。
「分かっておるわ。しかしの、かと言って安らかな死を迎えさせるというのもいささか業腹じゃ。書き手の思いを貫くべきか、はたまた読み手へ配慮すべきか、悩んでおる次第での」
「ならばいっそ、書かぬというのはどうか?」
苦悩する老人に対して、あっさりと言い放つ神奈。
「おい。そんな投げやりな……」
たしなめようとする俺を、老人が手振りで制した。
「いや、いや。それは名案やもしれませぬ。成程、敢えて書かずにぼかしてしまえば、その解釈を読み手に委ねることができるわけですからのう。
いっそ巻名を『雲隠』として、文字通り中身を雲隠れにさせてしまうのも一興というもの。これは良い案を頂きましたわい」
喜ぶ老人に、神奈は『それ見よ』と言わんばかりの表情で口の端を吊り上げた。まあ、俺が文芸に不調法であることを認めるにやぶさかではないが。
「ところで、そのお話の題名はお決まりでございましょうか?」
裏葉が尋ねると、老人は眉を寄せ、
「ふむ。特に考えてはおらなんだが、そうじゃな……」
杖を持ち上げると、その先端で地にうっすらと積もる雪を引っ掻いた。白い大地に達筆の文字が刻まれる――『光源氏☆物語』と。
「主人公の名を取って、こんなものではどうかのう」
「……その、真ん中の印は何だ?」
一筆書きの要領で書かれた、五本の交差する線を指して俺は言った。
「これは昔わしが死にかけたときに、さる方から授かった桔梗紋じゃ。言うなれば、わしの象徴のような印じゃな」
「いや、そんな印を付けて、あんたが作者だと知られたらまずいんじゃないのか」
俺が指摘すると、老人は頬を引きつらせて項垂れた。
「ぐっ……。おぬしの言う通りじゃの。失念しておった」
いちいち律儀に突っ込んでしまうあたり、俺も大概人が良いのかもしれない。
「まあ、名前なぞどうでもよい。読み手が好きなように呼んでくれて構わぬ。何より重要なのは、枕元に侍らせておるという草子との勝負じゃからな」
「わりといい加減なんだな」
「なに、名が呪として物事を縛るなどと言う者もおるが、所詮はまやかしよ」
老人はそう言い切り、ニヤリと笑う。
都の世情に疎い俺でも、この矍鑠とした年寄りが何者なのかは既に薄々察しが付いていた。その当人がこんなことを言い放つのだから恐れ入る。
「『いい加減』で思い出したのだが、祖父君に一つ尋ねたいことがある。良いだろうか?」
と、神奈がそこで口を挟んだ。
「わしに答えられることであらば、何なりと」
少々切り出しにくそうにしている神奈に向かって老人は頷き、仕草でその先を促した。
「……うむ。この羅城門のことが、最初に見たときから妙に気になっておるのだ。何か懐かしいような、なれど逆に恐ろしいような。
余がこの門を目にするのは今日が初めてだというのに、この気持ちは解せぬ。祖父君は何か、この羅城門の曰くを知らぬだろうか?」
自分でも言っていることが奇妙だと承知しているのだろう。その表情に躊躇が見える。
しかし、確かに当初から神奈は羅城門に興味を持っていたようだった。神奈自身も覚えていないほど幼い頃、神奈が京の都にやって来たことがあるというのだろうか。経緯を見るに少し考えづらいが。
「ふむ、そうですのう……」
老人は両手を杖に添え、少し丸めていた背筋を伸ばした。それだけの仕草で、十歳ほども若返ったように見えた。
――いや、それだけではなかった。その目が、それまでよりも遙かに強い光を帯びている。
「羅城門がこの通りの姿になったときのことをお話ししましょうかの。
あれは、今より十四年と半年ほど昔、天元三年の夏のことですわい。生憎、わしは那智山に出向いていて都にはおりませなんだが、怪異のくだりは聞き及んでいますゆえ」
その口調も改まり、飄々とした調子は影をひそめていた。
「怪異、とはどういうことなのでしょう?」
裏葉が戸惑い気味に尋ねた。その隣で俺も頷く。
「大風に耐えきれず門が倒れたのだと、俺は聞いていたが……」
老人は俺に鋭い視線を向ける。
「表向きは、の。じゃが、本当のところはそうではない」
そして神奈の方へ顔を戻すと、続けた。
「羅城門に被害をもたらしたのは、悪鬼――白き翼をその背に生やした、美しくも恐ろしい鬼であったと、見た者は言うておりました」
「なっ……」
神奈が絶句した。
その小さく震える肩を守るように、裏葉がそっと手を添える。俺もまた二人の傍らに立ち、老人を睨め付けた。
「二人ともそう怖い顔をするでない。わしは何もせぬよ」
老人は不敵な笑みを見せ、そして羅城門を振り返った。
崩れかけた巨大な門は、雪の向こうで静かに佇んでいる。恐らくは、その内に無数の死者を抱えながら。
「この門がこうして捨て置かれておるのは、悪鬼の呪いを恐れてのことでしての。いつまで経っても、誰も片付けようとは致しませなんだ。
左様、確かに呪いは今でも残っておりまする。なれど、それは人に向けてのものなどではなく、他ならぬその悪鬼を縛るための呪いに他なりませぬ」
こちらへ向き直った老人の表情は暗い。
「……『人心と交わり、悪鬼と成り果てた』などとは良く言うたものよ。呪法でその身を縛るだけでは飽きたらず、幼子を質に取って人同士の諍いに巻き込むなど、果たしてどちらがまことの鬼なのやら」
「ならば、母上は――」
言い淀む神奈に、老人は首肯した。そしてまた俺を見て、問いかける。
「柳也どのと申したな。おぬしは理解しておるのか。何を敵に回し、それがいかに困難を極めるものであるのかを?」
「無論だ」
俺は即答した。
「何ゆえ、おぬしはこのような道を選ぶ? おぬしほどの力量であらば、もっと楽な生き方もあろうに」
心の奥底まで見透かすような鋭い視線を浴び、俺は肩を竦めた。
「正直なところ、俺にも良く分からん。強いて言うのなら――そうだな、放っておけなかったからということなんだろう。少なくとも、俺にとってはそっちの方が気が楽でいい」
自分でも曖昧な答えだと思ったが、しかし老人は頬を緩めると、再び柔らかな笑みを浮かべて頷いた。
「ふむ、そうか。そうしたものかも知れぬのう」
ここで遅まきながら俺は気付いた。俺が老人を警戒していたのと同じく、老人の方でも俺を値踏みしていたのだと。
どこの馬の骨とも知れぬ無頼の徒が、果たして神奈や裏葉を任せるに値する男なのかを見極めようとしていたらしい。今の答えにそれを肯定するものがあったのかは疑問だが、どうやら老人は満足してくれたようだ。
恐らくは老人がその眼力で俺の人となりを見抜いたのだろう。何しろ、この老人こそは――。
「祖父上様っ」
そのとき、裏葉が老人に詰め寄った。
「どうか、祖父上様のお力で神奈さまを……」
しかし、老人は仕草で裏葉の言葉を遮る。
「済まぬの、裏葉。そうしてやりたいところじゃが、わしには無理じゃ。正五位上を叙されようとも、所詮は『化生ノ者』と蔑まれる、しがない陰陽師に過ぎぬよ。それほどの力は持たぬ。
何より、わしが大びらに動けば国が乱れる。それだけは何としても避けねばならぬからの」
謝る老人に、裏葉は我に返ったようだった。そのこうべを垂れる。
「……申し訳ありません。出過ぎた真似を致しました」
「いや、構わぬよ。おぬしの想いに応えてやれぬ、不甲斐無い祖父を許せ。
代わりと言っては何じゃが――どうか、これをお受け取りくだされ」
老人は懐に手を差し入れると、何やら平たい紙片を神奈に向かって差し出した。
「これは……」
それは人の形に切られた紙だった。陰陽の術におけるヒトガタと呼ばれるものだろう。
しかし、ただのヒトガタとは明らかに違う点が一つあった。その両肩からは、切れ込みが幾つも入れられた三角が斜め上に広がっている。
明らかに、それは翼を模したものだった。
「もし御身の上に穢れが降りかかることがあらば、この形代でその身を撫で、川に流されませい。それで穢れを祓うことができましょう。手筈はこの裏葉が心得ておりますゆえ」
「そうか……あいわかった。ありがたく頂こう」
神奈は老人の手から人形を受け取り、大事そうに綿入れの中へとしまった。
「それから、播磨の地に知徳という名の法師がおる。わしの古い知己じゃが、その者ならばおぬしらの力になってくれるやもしれぬ。西へ赴くことがあらば、わしの名を出して頼ってみるがいい」
老人は裏葉に向かってそう言った。
「はい。祖父上様のご厚意に感謝致します」
「なに、大した助けになれず申し訳ないがの。
――それから柳也どの。最後に一つ、尋ねても良いかな?」
老人は俺に向かって問いかけてきた。俺は頷く。
「ああ」
「本来ならば辿り着く筈のない都へ、おぬしらを導いたのは何じゃと思う?」
先刻、神奈と裏葉にからかわれたことを思い起こして苦笑しながら、俺は素直に思ったことを伝えた。
「言い訳じみて聞こえるだろうが、どうもカラスに化かされたような気がする。単なる思い過ごしかもしれないけどな」
「カラス――か。なるほどの」
老人は思案顔で呟くと、それから顔を上げる。
「さて、と。手間を取らせてすまなんだ。この雪でしばらく追っ手の動きは鈍るじゃろうが、早う立ち去った方が良かろうて」
老人が話を切り上げた。
「祖父君には大変世話になったぞ」
「お気遣い感謝する」
「どうか末永くお元気であられますよう」
別れの言葉を口にする俺達に、老人は笑みを浮かべたまま頷いた。
「うむ。おぬしらも達者での」
頭を下げ、そして笠を被り直した俺達は、踵を返してまた雪の中へと足を踏み出す。
ふと、背後で人の気配が唐突に消えた。振り向くと、そこには既に老人の姿はなかった。
「柳也どの、どうしたのだ?」
「……いや、なんでも」
神奈の問いかけにそう答え、俺はまた前へと向き直った。
雪はまだ、止む気配を見せない。