不味しんぼ
2005-05-15 by Manuke

 田中は以前から、味覚の追求という命題に取り憑かれていた。
 大手食品会社の研究部門に勤める彼にとって、味が最大の関心事であるのは至極当然のことと言えるだろう。
 けれども田中が他の同僚達と異なっていたのは、その興味が『美味さ』とは全くの逆方向――『不味さ』に向いていたことだった。
 田中がそれに興味を持ったきっかけは、とある美食漫画を読んだことにある。究極がどうのと言うその漫画の描写に、田中はどうにも納得がいかないものを感じたのだ。
 当たり前のことではあるが、味の好みには個人差がある。ある人間が美味いと感じたものが、別の人間にとって吐き気を催すということも珍しくはない。だからこそ田中ら研究者は日々苦労しているのだから。
 にも拘わらず、その漫画では皆に礼賛されるか非難されるかのどちらかで、異論が挟まれることは滅多にない。あまりにも嗜好が画一的なのである。田中が不満だったのはその点だった。
 が、そこで彼はふと考えた。万人が受け入れる『究極の美味さ』はまずあり得ないとしても、万人が拒否する『究極の不味さ』はどうだろうか、と。
 本当に不味いものは、誰が口にしても不味いはず――その思いが、田中が『不味さ』の探求を始めることになった発端だった。
 無論、その追求が会社にとって利益になるはずもなく、従って大っぴらに研究する訳にはいかないと理解できる程度には、田中も分別をわきまえていた。しかしながら、こっそりやるなら構わないだろうと考える身勝手なところも持ち合わせていたのである。
 もっとも、田中が半ば趣味的に行っていた『不味さ』の研究は、間接的に彼の本業に役立つこととなった。
 何しろ田中は、どうすれば不快な味になるかを日々研究しているのだ。それを避けることにより、彼はスマッシュヒットとは行かないものの充分に人気のある商品をいくつも生み出すことに成功していた。
 その結果、変わり者だが優秀な研究者という評価を田中は得ることになった。彼が常日頃行っている研究も、むしろ探求心旺盛なものだと好意的に受け止められ、上司からある程度の自由裁量を与えられたほどだ。
 本来なら充分満足できる結果と言えるだろう。研究者として成功し、趣味を続けることも認められたのだから。
 しかし、田中は妥協ができない男だった。むしろ『美味い』商品の開発を手がけたことが、逆に『不味さ』への執着を妄執へと格上げしてしまったのである。
 味覚とは、究極的には《甘味》・《塩味》・《酸味》・《苦味》、そして《旨味》の五種類しかない。一般に味の部類と考えられている《辛味》は、むしろ痛覚に属するものなのである。
 この五基本味の組み合わせだけを使って、いかに不味いものを作り出せるか――田中の興味はそこにあった。
 実際のところ物の味というものは基本味だけではなく、辛味や食感、匂いなど様々な要素に影響を受ける。単に悪臭を付けただけでも、皆が嫌がるものは出来上がるだろう。
 けれども、田中はそれらに頼ることを良しとしなかった。求道者のごとき純粋さと言えるかもしれない――方向性さえ間違えていなければ。
 そして、彼の執念はついに結実し、一つの調味料を生み出すこととなったのである。無色透明、無臭なその液体を、田中は究極調味薬と名付けることにした。
 それを早速口にしてみようとして、しかし田中は思いとどまった。何しろ、研究中はほとんど自分でしか試したことのないのである。せいぜい、開発中の商品の試食会に少し混ぜたことがある程度だ。
 果たして本当に自分以外の人間にも不味いのだろうかと不安に駆られた田中は、誰か他人に飲ませて反応を確かめることに決めた。
 究極調味薬を密閉容器に移し替え、部屋を出て被験者――もしくは犠牲者――を探していると、同僚の鈴木が自販機でコーヒーを買おうとしているところに出くわした。鈴木は実直で人を疑うことを知らない、おあつらえ向きの相手だ。
 田中は鈴木を呼び止め、新しい清涼飲料の試作品を試して欲しいと頼み込む。鈴木は二つ返事で了承してくれた。
 受け取った容器の蓋を開け、鈴木はその液体を一気にあおった。とたんに、その顔が異様なまでに引きつる。それを見て、田中は背筋がゾクゾクするような快感を覚えた――ああ、やはり不味いのだ、と。
 ところが次の瞬間、田中が予想していないことが起こった。鈴木が容器を口に付けた姿勢のまま、突然ばったりと倒れたのだ。
 田中は慌てて駆け寄り、肩に手をかけて揺すったが、鈴木の返事はない。それどころか脈もなかった。鈴木は既に事切れていたのである。
 さすがに田中の顔が青ざめた。どう考えても身の破滅だ。騒ぎを聞きつけた同僚達が集まってきていたため、もはや隠しようもない。
 鈴木の死因は急性心不全だった。当然ながら、田中が鈴木に飲ませた液体に疑惑の目が向けられた。
 だが、田中が驚いたことにその疑念はすぐに晴れることとなった。何しろ、液体からは毒性のある物質が何一つ検出されなかったのだから。
 鈴木はその液体を飲んだときにたまたま心不全を起こして亡くなったのだとの診断が下され、田中にはむしろ間の悪いところに居合わせただけだと同情された。
 しかし、田中にだけは事の真相が分かっていた――鈴木は、あまりの不味さに衝撃を受け、心臓の鼓動を止めてしまったのだと。
 究極調味薬には体に悪影響のあるものは含まれなかったことに加え、研究内容がバレることを恐れた田中がすぐに風味が失われるように細工していたため、それが何を目的とした液体だったのか誰にも知られずに済んだのだ。
 田中は思案し、そして決心した。
 鈴木の死の件でショックを受けたと偽って会社を辞め、自宅に引き籠もって究極調味薬を再び調合した。そして、その液体を持って遠くの町まで出向き、『実験』を行ったのである。
 その結果、究極調味薬は完全な致死性を持つこと、そして人間以外には効果がないことが判明した。
 田中に騙されて液体を飲まされた浮浪者や通りすがりの人間は、ことごとく命を落とした。一方、犬や猫などの動物は、味覚のあり方が異なるためか効き目はないようだった。
 それを確かめると田中は自宅を引き払い、財産を処分して外国へと旅立った。そして、とある国のマフィアの元へ乗り込み、自分を売り込んだのである――絶対に検出されない毒薬が欲しくはないか、と。
 最初は半信半疑だったマフィア側も、すぐにその絶大な効果を認めることとなった。そして、田中を客分として迎え入れた。
 マフィアが事前にお膳立てを済ませてから、田中が出向いて究極調味薬を料理や飲み物に混ぜる。実に奇妙な殺し屋の誕生だった。
 絶対に検出されないこと――それは毒殺であることがバレないということでもある。状況がどれだけ疑わしかろうと、単なる突然死と区別が付けられなければ、罪に問うことなどできはしない。
 一度口にすれば吐き出しても無駄、人間以外の毒味は役に立たず、試した人間は確実に死ぬ。しかも事後に発覚することもない。それは暗殺に向いた特性と言えるだろう。
 恨みの募る相手の謀殺、遺産相続がらみのいざこざ解消、保険金殺人、果ては敵対国の要人暗殺まで。その毒薬は引く手あまたであり、マフィアの懐を大いに潤すこととなったのである。
 無論、マフィア側は究極調味薬の調合方法を秘密裏に解明しようとしたが、それは成功しなかった。田中は決してその液体を他人に触れさせようとしなかったし、時間が経てば風味は失われてしまうのだから。何より、それが実は毒薬ではなく単なる調味料にすぎないなどとは知るよしもなかった。
 もっとも、田中はあまり手のかからない客分ではあった。彼はそれなりの生活ができる以上の金品は要求しなかったのである――ただ一つ、毒殺対象の死に様を知りたがることを除いては。
 田中は究極調味薬を提供することの見返りとして、被害者が死ぬときの様子を要求したのだ。できれば死の瞬間に居合わせることを、それが無理なら動画や写真、はたまた文章による描写でも構わない。とにかく、被害者の死に顔を知りたがっていた。
 マフィア達は田中がサディストなのだろうと考え、それ以上深くは詮索しなかった。賢明にも、金の卵を産むガチョウを殺してしまうような愚は犯さなかったのである。
 そうして、マフィアと田中の奇妙な共生関係は長く続くこととなった。その間、田中が殺めた人間の数は優に三桁を数えた。
 が、ついに田中も年貢を納めるときがやってくることになる。マフィアがあまりにも手を広げすぎ、彼等が『検出できない毒薬』を使った暗殺を請け負っていることが警察に発覚してしまったのだ。
 ガサ入れに来た警官達とマフィアの銃撃戦が始まったアジトの一室で、田中は最後の究極調味薬を調合していた。警察ごときに自分の発明が解明できるとは思っていなかったが、ちょうどいい潮時だと考えたのだった。
 そう、田中はずっと究極調味薬を自分で味わってみたかったのである。鈴木が目の前で倒れたときから――いや、初めて調合に成功したときから。
 それを今まで引き延ばしてきたのは、味わってしまえば自分が命を落とすことを知っていたためだった。一度きりで終わらせてしまうのを勿体なく思い、たくさんの犠牲者を作り出してきたのだ。そして彼等の死に様を眺めながら、いずれ自分が味わうだろう『究極の不味さ』への期待に恍惚となっていたのだった。つくづく身勝手な男であった。
 田中は調合を終えると、ゴクリと唾を飲み込み、ビーカーから直接その液体を口に含んだ――そして次の瞬間、自分の間違いを知った。
 口の中に広がったのは、極上の『美味』だったのである。
 彼の犠牲者達は、あまりの不味さに悶絶して死んでいったのではなかった。途方もない美味さに魂を抜かれ、驚きのあまり心臓が鼓動することを止めたのだろう。
 田中は、追い求めた『究極の不味さ』ではなく、否定したはずの『究極の美味さ』を作り出してしまっていたのだ。
 舌から伝わる美味を表現しきれずに田中の表情が歪み、脳を焼き尽くすほどの快楽に心臓がきゅうっと収縮する。
 究極の美味がもたらした天にも昇る愉悦のただ中にありながら、田中が感じていたのは深い絶望だった。
 彼にとって、それは失敗以外の何者でもなかったのだから。
 自分が手にかけた人々と同じ悦楽を味わいつつ、視界がブラックアウトし、意識が薄れていく。しかし、その悦楽は田中にとって屈辱そのものであった。彼は悔しさのあまり涙をこぼしながら死んでいった。
 数分後、ドアを蹴破って部屋に闖入した警官が床に倒れている田中を発見する。田中の息は既になく、転がっていたビーカーから服毒自殺を図ったのだろうと推定された。
 けれども、その頬が濡れていた訳を知る者は誰一人としていなかった。

Fin.