葉桜の季節
2002-05-20 by Manuke

 入学式が終わった後、副担任の先生に引率されて、私たちはこれから一年の間学ぶことになる教室へと移動した。
 例年よりも温かかったせいか、廊下の窓から見える桜の木はほとんど花びらを散らしていて、代わりに若葉を芽吹かせ始めている。
 教室は、去年の私の教室――あんまり通えなかったけれど――の隣だった。
 先生は私たちが席に付いたのを見届けると、「すぐ戻りますから」と言い残して教室を去っていった。けれども、教室の中はそれほどざわついてはいない。
 少数の人たちを除いてお互いが初対面なのだから、それも無理はなかった。クラスメイトの中での自分の位置づけをまだ見極められず、期待と不安に胸を踊らせている、といったところだろうか。
 かく言う私も、決してそれほど落ちついているわけじゃない。
 それでも二度目の入学式ということもあって、不安よりも期待のほうがずっと強い。何より、去年私が感じていたもう一つの『不安』を、今は心配しなくていいのだから……。
 ふと隣を見ると、緊張しているのか表情の強ばった女の子の横顔があった。軽くウェーブがかかったセミロングの髪が、どことなくお姉ちゃんに似た感じだ。
 私の視線に気付いたのか、その子が不安そうに私の方を見た。
 私は笑顔で言った。
「初めまして。私、美坂栞って言います」
 女の子は少し慌てたように答えた。
「あ……。わ、わたしは西村恵、です」
「西村さんですか。一年間、よろしくお願いしますね」
「こ、こちらこそ」
 西村さんはそう言うと、ほっと息をついて表情を和らげた。
「わたし、少し離れたところから来たから、知り合いがいなくて……。ちょっと心細かったんです。声をかけてくれてありがとう」
「いえ、私もまだお友達はいませんし。
 ここで隣り合ったのも何かの縁ですから、私たち『腹心の友』になりません?」
 西村さんはくすっと微笑んだ。
「ええ、いいですよ。
 でも、そうするとわたしが『ダイアナ』なんですか?」
 私は溜め息をつくと、大げさな身振りで言った。
「ああ、せめて私が燃えるような赤毛だったなら格好がついたかもしれないのに……。
 こんな髪ではとても『アン・シャーリー』は望むべくもないわ。黒髪のアンなんて、それは滑稽にしか聞こえないもの。そう思わない?」
 西村さんは口元に手を当てて、くすくすと笑った。
「美坂さんって、面白い人なんですね」
「う~ん、そうなのかな?
 だとしたらきっと、ある人の影響だと思います」
「ある人って……。もしかして」
 西村さんが、ちょっとばかり冷やかすような表情になる。
「え、えっと……。
 あ、先生来ちゃいましたよ、先生」
 私は慌てて誤魔化した――先生が来たのは本当だけど。
「美坂さん、あとでじっくり聞かせてもらいますね」
 ……なんだか最初から恥ずかしい展開になってしまったような気がする。でも、それもまた楽しい学校生活の始まりを感じさせるようで、決して嫌じゃなかった。
 担任、副担任の先生方が学校の取り決めや心構えを簡単に説明される。その後、親睦を深める意味で全員自己紹介をすることになった。
 『あ』の付く人から順に名前とプロフィールを述べていく。一見真面目そうな人が意外に面白い感じだったり、すっかり緊張して小声になってしまう子がいたり。
 この人たちと、これから一年クラスメイトとして一緒に学んでいくのだなあと思うと、感慨深い。
 しばらくして隣の列、西村さんの番になった。席を立ち、ハキハキした調子で自己紹介を始める。さっき、遠い所から来ているとは聞いたけれど、家からこの街の駅まで電車で三十分もかかるらしい。
 話し終え、席に座った西村さんは、「美坂さんのおかげで緊張しなくてすみました」と小声でお礼を言ってくれた。
 自己紹介は続いていき、ついに私の番になった。立ち上がると、クラス中の視線が集まる。私はぺこりとおじぎをすると、切り出した。
「美坂栞です。
 実は私、皆さんとは違って新入生じゃないんです。去年は病気を患って長期欠席してしまい、留年になっちゃいました。入学式は学校の計らいで、もう一度参加させてもらえたんですけど」
 西村さんも含め、クラスのみんなはちょっと驚いているみたいだ。
「病気はすっかり良くなったので、今年は皆勤賞を狙ってみたいと思います。
 趣味は、あんまり巧くないですけど絵を描くことです。好きなものはアイスクリーム、特にバニラですね。
 それでは皆さん、よろしくお願いします」
 もう一度おじぎして、すとんと席に座る。西村さんがまた小声で話しかけてきた。
「……美坂さんって、わたしより一つ年上だったんですか」
「あ、私のことは『栞お姉ちゃん』って呼んでくれてもいいですよ」
「え、遠慮しときます」
 西村さんは苦笑してそう答えた。
「う~ん、残念です」
 ちょっと憧れてるんだけど。
 ……って、私やっぱり祐一さんの影響を受けてるのかなあ。

 オリエンテーションが終わって、私と西村さんは昇降口まで一緒に行くことにした。
 西村さんは、お母さんと一緒に来たということだった。私はと言えば、偽入学生なので付き添いはなし。
「でも、その代わり家で二度目の入学お祝いパーティーをやるんですよ」
「美坂さんもですか?
 家も今日はお祝いで、外でお食事なんです」
 歩きながら話していた私は、下駄箱の前まで来てようやくその人たちの存在に気付いた。
「あっ。祐一さんにお姉ちゃん!」
「よっ、栞。早速友達ができたみたいだな」
 お姉ちゃんも祐一さんも、私服姿だった。私を迎えに来てくれたようだ。
「紹介しますね。こちらは私の『腹心の友』の西村さんです」
「西村恵です」
「西村さん。こっちは私のお姉ちゃんと、相沢祐一さんです。
 二人はこの学校の三年生なんですよ」
「美坂香里です。妹と友達になってくれてありがとう」
「相沢・ギルバート・祐一だ。よろしく」
 祐一さんがすっと右手を上げて挨拶した。さすが祐一さんだ。
「……何、その変なミドルネームは?」
「なんだ。ノリが悪いな、マリラ」
「誰がマリラよっ!」
 西村さんはくすくすと笑った後、祐一さんに訊ねた。
「あの、『ギルバート』ってことは……。もしかして」
「ああ。栞の恋人だ」
 祐一さんが、さらっと言ってのける。ストレート過ぎて、ちょっと恥ずかしい……。
「じゃあ、美坂さんがさっき言っていたのは、相沢さんのことなんですか?」
 西村さんが、私に聞いてくる。
「えっと……」
「そりゃ何の話だ?」
「わたしが美坂さんに、『面白い人ですね』って言ったとき、美坂さんはある人の影響だっておっしゃったんです。
 相沢さんが、その『ある人』なのかなって……」
 祐一さんは腕を組んで言った。
「それはどうだろうな……。
 正直なところ、栞はわりと最初っから変な奴だった気がするんだが。
 どう思う、美坂姉?」
「そうね。ありていに言わせてもらうなら、昔から変な子だったわね」
「うーっ、そんなこと言う人たち嫌いです」
 私は頬を膨らませる。お姉ちゃんは肩をすくめた。
「事実なんだからしょうがないでしょ?
 ただ、その『変な子』度は相沢君の影響で、ますます強化されているような気はするわ。だから、どっちも正しいということになるのかしら」
「なるほど。良かったな、栞」
「えぅ……。あんまり良くないような気がします」
「そうか? 『変な奴』ってのは誉め言葉だと思うんだが……」
「それは祐一さんだけです」
 思わずため息をついてしまう。
 祐一さんはそんな私の両肩を掴み、目を覗き込んで言った。
「栞……。もっと自信を持ったほうがいいぞ。
 お前は俺にとってかけがえのない人間なんだから」
「ゆ、ゆういち……さん?」
 間近に見える真剣な表情に、思わず胸が高鳴った。
「なにしろ、俺の周りの奴らは天然ボケばっかだからな。ちゃんとしたボケとツッコミを両方装備している数少ない貴重な――痛っ! 痛てててて。
 わ、悪かった。もう言いません!」
「『ごめんなさい』は?」
「ご、ごめんなさい……」
「よろしい」
 私は引っ張っていた祐一さんの耳を放した。
「あー、ちぎれるかと思った……」
「経文をちゃんと耳にも書いておかなかった祐一さんが悪いんですよ」
「平家の亡霊かよ……。
 って言うか、そもそもどこにも書いてないんだから全身テイクアウトOKだぞ」
「嬉しいです。じゃ、祐一さんをお持ち帰りで今日のパーティーに参加してもらいます」
「まあ、最初からその予定だけどな」
 西村さんが軽く咳払いして小声で言った。
「……あの、美坂さんのお姉さん?」
「何かしら」
 お姉ちゃんも小声でそれに答える。
「わたしたち、もしかしてお邪魔なんじゃありません?」
「本人たちに悪気はないんだけどね……。
 端で見ていて面白いのは確かなんだけど、ときどき蹴っ飛ばしてやりたくなるわね」
「分かります、その気持ち」
「……思いっきり聞こえてるぞ」
「二人とも、酷いです」
 顔を見合わせ、思わず全員吹き出してしまう。
 ひとしきり笑った後、西村さんが入り口に人影を認めた。
「あ、母が来たみたいです。わたし、もう行きますね」
「それじゃ西村さん、また明日です」
「はい。さようなら」
 西村さんは私たちと挨拶を交わし、靴を履き替えて上品そうな和服姿の女の人の所まで駆け寄った。西村さんのお母さんはこちらに向かって会釈すると、二人並んで外へと出ていく。
 私は西村さんの姿が消えた後も、日の光が射し込む入り口の方を見つめていた。
 外からは、暖かみを帯び始めた風が流れ込んでくる。白一色で塗りつぶされていた景色は一変して、木々の緑がそれに取って代わろうとしていた。
 ――それは、ずっと訪れないと思っていた季節。
「さて、俺達もそろそろ……。
 栞、どうかしたのか?」
 言いかけた祐一さんが、私の様子に気付いて訊ねてきた。
「いえ、なんでもないんです。ただ……」
「ただ?」
「こんなに幸せでいいのかなって。
 ずっとこんなふうに、普通に学校へ通いたいと願ってたんです。そして、そんなことはあり得ないって諦めてました。
 その夢が叶った今、ちょっと恐いんです。こんなに幸せ過ぎていいんだろうかって。
 ……私って、馬鹿ですね」
「栞……」
 お姉ちゃんが気遣わしげに私を見つめる。
 そして祐一さんは――
「ああ。馬鹿だな、栞は……」
 ――後ろから、包み込むように私を抱きしめた。
「まだまだ、こんなもんじゃない。この先、栞は今よりもっと幸せになるんだからな。
 この程度で音を上げてたら、世界は目指せないぞ」
「世界……ですか?」
「ああ。世界で一番幸せな人間としてギネスブックに載るんだ。
 推定幸福度は、現在の約17倍だな」
「それは凄いです」
 お姉ちゃんも笑顔に戻って言った。
「基準がよくわからないけど、姉として負けられないわね。
 じゃあ、あたしは28倍ぐらい栞を幸せにしてみせるわ」
「そう来るか……。じゃあ、俺はFXで」
「あ、駄目ですよ祐一さん。FXはお姉ちゃん的に不可なんです」
 私は振り返り、祐一さんを見上げて指摘した。
「何っ、そうなのか?」
「はい。中年の正太郎君は駄目だそうです」
「ちょ、ちょっと。何を言い出すのよ」
 お姉ちゃんは額に汗を浮かべて動揺している。
「ふーむ、香里にそんな属性が……」
「しかも、もう一つ重要なことに、触角ぞくせ……」
「わっ、わーっ! 栞っ、余計なことを言わないのっ!」
 私は祐一さんの腕の中から抜け出して、その背後に隠れた。お姉ちゃんはすっかり真っ赤になっていて、祐一さんはそれがおかしくて笑っている。
「落ち着けって、香里。奴には黙っててやるから」
「……屈辱だわ」
「まあまあ、お姉ちゃん。
 『禍福は糾える縄の如し』って言うから、そのうち良いことがあると思うよ、きっと」
「あんたが言わないのっ!」
 そんなやりとりもまた楽しくて。
 ――でも、気付いてますか、祐一さん?
「さあ、そろそろ俺達も行こうぜ。あんまり遅くなると心配するだろ?」
「はい」
「……しょうがないわね。さっきの件、くれぐれも内密に頼むわよ」
「バニラアイス二杯で手を打とう」
「くっ……、人の足元を見て」
「やりましたね、祐一さん」
「おう。息の合った連係プレイの勝利だな」
「……あんたたち、最初っからグルなわけ?」
「そんなことないよ」
「そう、言うなれば愛の絆の力ってわけだ」
「はぁ……、もう好きにして」
 ――気付いてますか、祐一さん?
 私の幸せが、祐一さんとともにあることなんだってことを。
 春が来て、やがて夏になり、秋が訪れて、そしてまた冬に戻っても……。
 祐一さんの隣に立っているのが私であること。それが私の幸せ。
 今でももう、世界で一番幸せだって知ってますか、祐一さん?
「そう言えばお父さん、祐一さんに会えるのを楽しみにしてるんですよ」
「それは、何となく意味深だな……」
「まあ、多少は覚悟しておいたほうがいいかもね」
「……そんなこと言う人嫌いです」
「あ、私の決め台詞取っちゃ駄目です!」
 そんな他愛のないおしゃべりを交わしながら、私は外へ足を踏み出した。
 訪れなかったはずの季節――春の穏やかな日差しを全身に浴びて……。

Fin.