アイスクリーム日和
2001-08-10 by Manuke

 北川潤は昼飯を学食で摂り終えた後、自分の教室へ帰る途中だった。
 好物の親子丼を奮発して大盛りにしたせいで、いつもよりもやや遅い時間だ。
 親友の相沢祐一はさっさと食事をすませ、先に学食を後にしていた。ここのところ、いつもそのパターンである。
 ――潤は、祐一が昼食を終えた後どこにいるのか、知っていた。
 渡り廊下との分岐点に差しかかったとき、潤は横からふいに吹きつけてきた寒風に体をぶるっと震わせた。
「春は名のみの……ってやつか。
 ――ん?」
 ふと見ると、一人の女生徒が渡り廊下の窓を開き、窓枠に肘をついていた。風はその窓から吹いてきたのだろう。
 潤は、その女生徒の顔に見覚えがあった――そもそも、先刻まで共に食事を摂っていた相手である。
「よっ、美坂。
 何やってんだ、こんな所で?」
 潤が近づきながら声をかけると、女生徒――美坂香里は驚いた様子で振り向いた。
「北川……君」
 その切れ長の目に浮かんでいた涙に、潤は動揺した。
「あっ……えっと」
 思わず視線を窓の外に逸らしたとき、潤は思いがけない光景を目にした。
 まだ雪の残る中庭にしゃがみこんだ男女が、互いを抱きしめ合っていた。人目をはばかる様子もなく。
 少女は相手の名前を涙声で呼びながら、その首にしがみついている。少年もまた、少女の背中を優しく抱き、肩を震わせていた。
「あれ、相沢か……?
 何恥ずかしいことをやってんだろうな」
 からかいの調子を含んだその言葉に、香里は抗議しようとした。
 が、潤の表情を見て、言葉を失う。
「ん、どうかしたか?」
 問いかける潤に、香里は逆に訊ねた。
「北川君……。もしかして、知ってるの?」
 潤が階下の二人を見つめる瞳には、優しい笑みが浮かんでいた。
「……いや、俺はなんにも知らないさ。どんな事情があったとか、何が起こったのかってことは。
 男ってのは、相手が話さない限り詮索しないもんだからな。
 ――ちょっと格好つけすぎか?」
 そう言って頭を掻く。
「でも、相沢がずっと中庭であの子を待っていたのは知っている」
「そう……」
「情けないよな。
 俺はどうしたらいいのか分からなくて、踏み込むこともできなくて。
 ただいつも通りにバカやっていれば、少しは気がまぎれるのかもって……。
 相沢と、美坂が苦しんでいるのを知ってたのにな」
「……」
 香里は拳をぎゅっと握り締めた。
「そんなこと……ないわよ。
 情けないのはあたしのほう。逃げ出して、ポーカーフェイスを気どっていたつもりのあたしのほう。見透かされていたことも知らないで」
 香里は窓枠に手をかけ、二人を見つめた。
「……あの子、あたしの妹なの。
 大切な、たった一人の妹。ずっと今まで一緒に生きてきて、これからもずっとそうだと思っていた。
 でも去年の暮れ、医者に聞かされたわ。
 あの子――栞が、2月まで生きられないってことを」
「えっ……?」
 潤の戸惑う表情に、香里は少しだけ笑みを浮かべた。
「あ、今はもう大丈夫よ。
 起こらないはずの奇跡が起きて、あの子は命を取りとめたわ。ずっと休んでいた学校も、今日から再開。
 それであの『感動の再会シーン』ってわけ」
「そうか……。良かったじゃないか」
 潤の言葉に、香里は再び顔を曇らせる。
「ええ、そうね」
「……まだ、何か心配なことがあるのか?」
「ううん、そういう訳じゃないわ。
 ただ、あたしは成すべきことを成せなかった。それを後悔しているだけ」
「後悔?」
「そう。
 栞がいなくなってしまうのを正視できなくて――。
 自分の死期を知らされても笑顔を絶やさなかったあの子に、どんな顔を向ければいのか分からなくなって――。
 逃げ出したのよ。栞の前から」
「……」
 香里は自嘲的にうそぶくと、自分の肩を抱いた。
 その震えが、開いたままの窓から吹き込んでくる冷たい風のせいだけではないと、潤には分かった。
「栞と顔を合わせないようにして、言葉を交わさないようにして……。
 自分には妹なんか初めからいなかったんだって、そう無理矢理思いこもうとしたのよ。身勝手で愚かな行為よね。
 だけど、相沢君は違った。栞がもうすぐいなくなるんだって知らされても、相沢君は逃げ出さなかった。ずっと栞のそばで、普通に笑ってた。
 相沢君の隣で、栞が心から微笑んでいるのを見たとき、ようやくあたしも思い出せたのよ。本当に大切なもののことを」
「そうか……」
「栞は許してくれたわ。あの子は優しいから。
 でも、あたしは未だにあたし自身を許すことができない。
 いずれ後悔するってこと、あのときですら分かっていたのにね。ほんと、愚かで弱い人間なのよ、あたしは」
 小さく溜め息をつく香里の隣で、潤は廊下の反対側の窓越しに見える空を眺めながら、柱に寄りかかった。
「……俺にもさ、妹がいるんだ。二人ほど」
 潤は気負う様子もなく、淡々と話し始めた。
「D組に麻宮ってうるさい奴がいるだろ? あれがその一人。
 確か去年美坂と一緒のクラスだったから知ってると思うけど。
 ……妹って言っても双子なんだけどな」
「えっ? 麻宮……姫里さんのこと?」
 香里がやや戸惑うように問い返す。
「そう、そいつ。
 断っとくが、一卵性じゃないぞ」
「……そんなこと、誰も疑ってないわよ」
「いや、『北川君って美形だと思っていたけど、もしかして女の子だったのかしら』とか思われると困るからな」
 わざわざ裏声で香里の真似らしき台詞を言う潤に、香里はまたひとつため息をついた。
「一体何が困るっていうのよ……」
「まあ、いろいろと。
 ちなみに名字が違うのは、俺が北川の家へ養子に出されたからだ」
 何気なく潤が言ったその言葉に、香里は息を飲んだ。
「あ……ごめんなさい」
「いや、美坂が謝る必要はないだろ? こっちが話し始めたことだし。それに、俺はそのことを負い目にも感じてないからな。
 ただ、昔はどうにも照れ臭くてさ、あいつに対してずいぶん素っ気ない態度を取ってたころもあった。
 同じ学年で違う名字なのに『お兄ちゃん』なんて呼ばれると、どうもな。友達に説明するのも面倒だったし」
「そういう……ものかしら」
「そういうもんだ。
 でさ、今でこそキィ――姫里の奴は小うるさいくらいに元気だけど、中学のときに結構大きな交通事故に遭ったんだ。
 そのとき医者に言われたのが、『我々も最善を尽くしますが、最悪のケースもご覚悟ください』って感じの台詞だった」
「……」
 二人の間に沈黙が降りる。
 廊下からは、生徒たちのざわめきが校内放送のメロディと共に聞こえてくる。しかし、向こうには特別教室が集まっているためか、渡り廊下を通る者はいない。
 沈黙を破ったのは香里だった。
「北川君は……逃げなかったんでしょう?」
「ん? いや、そんな説教じみた話をするつもりじゃないさ。
 第一手術は無事終わって、経過も順調だったから、色々思い悩む必要もなかったし。
 ……ただ」
 潤は当時のことを思い浮かべ、目を閉じた。
「ただ、凄く恐かったのを覚えてる。
 胸にぽっかり穴があくとか、足元が崩れるようだとか、言葉にすると陳腐になるけどな。とにかく恐かった。どうすればいいのか、分からなかった。
 当たり前のように思っていたものが、ある日突然当たり前じゃなくなる。そんなこと、珍しくもないことだって分かっていても、慰めになるはずもなくて。
 どうして、もっと側にいてやらなかったんだろうって、後悔して。
 俺は美坂の家の事情は知らないし、安易に同情されるのは迷惑かもしれない。
 ……でも、本当に恐いよな。あれは」
 香里はうつむいた。前髪がその表情を隠し、両肩が小刻みに震え出した。
「……っ!」
 声にならない声とともに、伏せたままの香里の顔から、ぽたぽたと雫が床に落ちる。
「恐……かった……。
 あたしも……凄く恐かった」
「そうか。そうだな」
 自分の言葉が引き出した反応に躊躇しつつ、潤は香里の肩をそっと叩いた。
(こんなとき、胸元で泣かせてやると絵になるのかもしれないけど……)
 シャイな性格が災いして、潤はそこまでふっ切れない。それでも、いつも気丈な香里が見せた弱々しい様子を、潤はどうしても放っておけなくて……。
「あーっ! ちょっと、何やってるのよ!」
 唐突に聞こえてきたその声に、潤はほっとしたような、がっかりしたような複雑な気分を味わった。
「何……してるように見える?」
「お兄ちゃんが女の子を泣かせているように見える」
 快活そうな少女がしれっと答える。
 先程の祐一たちと大差無い状況に陥っていたことに気づいて、潤は苦笑した。
「いや、そう見えるかもしれんが……。
 むしろ、俺の株を上げているところと言うべきだな」
「株、ねぇ……」
「赤丸急上昇って奴だ」
 しゃくりあげる香里の傍らでは、説得力にかける台詞だったが。
 少女――麻宮姫里は一瞬考えこむ様子を見せたあと、潤に指先を突きつけて言った。
「インサイダー取引ね!」
「……ちょっと待て」
「いやむしろこの場合、株価の不正操作と言うべきなのかしら?」
「うっ……」
 やや痛いところを突かれた感のある潤は、唐突に話題をすり替えた。
「キィ、貴様は妹キャラとして失格だ!」
 姫里に向かって言い放つ。
「な、なんなのよ。それは!」
「そのようなことも、指摘されねば悟れぬとは……。愚かな!
 よいか、キィ。この場合には、妹は兄を応援しつつも、一抹の寂しさを覚える複雑な内心をそれとなく表現してみせる。これが王道というものよ。
 貴様のありようでは、ヒロインの座を獲得することはおろか、サブキャラに登用してもらうことすらおぼつかぬわ。このたわけが!」
「ぬぬ……。言わせておけば!
 それなら自分は兄キャラとして不足なしとでも言うわけ? それこそお笑いね。
 王道たるお兄様というのは、すらりと背が高く運動神経抜群、学年トップの成績で生徒会長を務めながらも、嫌みのない爽やかさで誰からも好かれる人間でなければいけないのよ。あとバンドのボーカルも。
 ほんのタッチの差でしかない偽兄貴のうえに、女の子顔ではねぇ……。
 いやむしろ弟キャラ? 潤くん?」
「ぐはっ。言ってはならんことを……。
 大体そんな完璧超人、少女漫画の中以外に存在するはずないだろうが!」
「何よ。自分だって変な幻想を抱いてるくせに」
「それは漢のロマンというやつだ」
「なら、私の方だってロマンよ」
「認めん。却下だ!」
「不当よね。公正取引委員会に言いつけてやるから」
「……ぷっ。くすくす。
 あなたたち、本当に兄妹なのね……」
 二人のやりとりに、香里が吹き出した。
 まだ涙に濡れたままの顔を上げる。その表情にはまだぎこちなさが残るものの、紛れもなく笑顔だったことに潤は安堵した。
 その脇を、姫里が肘でつつく。
「……何だよ」
「お兄ちゃん。こういうとき、ハンカチを差し出すのがセオリーなんじゃないの?」
「いい判断だな。しかし……」
「……持ってないわけね?」
「その通り」
 潤が頷く。姫里は深く溜め息をついた。
「……別にいいわ。あたしもハンカチ持ってるから」
「まあ、美坂さんもそう言わずに」
 姫里が自分のポケットからチェック柄のハンカチを取り出すと、潤に手渡す。
 潤はそれを受け取って、香里に差し出しながら言った。
「美坂、君には涙は似合わない。良かったらこれを使ってくれたまえ」
「……あ、ありがとう」
 その言い回しに、また香里は吹き出してしまう。
「なんか受けてるみだいだぞ?」
「……はぁ。これは処置なしね。
 まあいいわ。私はそろそろ教室に戻るから」
「おう、さくさく帰れ」
「ふーんだ!」
 姫里は潤に向かって舌を出すと、きびすを返してぱたぱたと駆けていった。
 潤はその後ろ姿を見送りながら、苦笑して言った。
「まったく、何しに来たんだか」
「心配してくれたのよ、きっと」
「……そうかもな」
 香里は、まだ少し目が赤いところを除けば、もう普段通りの様子だった。
「ハンカチ、洗って返すわね」
「いや、別に気にしなくていいぞ」
「そうもいかないわよ」
「まあ、どっちでもいいけど」
 潤は窓枠に肘をつき、階下の風景を眺めた。
「おっ、相沢の奴、なんか困ってるみたいだな」
「えっ?」
 二人はいつの間にか芝生の上に移動していた。
 まだ肌寒い中庭で、ポリ袋いっぱいに詰め込まれたアイスクリームを栞に勧められ、祐一が困惑しているのが見て取れる。
「あの子は……」
 香里があきれたように呟いた。
「おーい、相沢!」
 潤は窓から身を乗り出し、祐一に向かって叫んだ。
 祐一はぎょっとして周囲を見渡すと、2階の渡り廊下に潤の姿を認めた。
「北川……。いつからそこにいたんだ?」
「気にするな。美坂もいるぞ」
 潤は香里の袖を引っ張りながら言った。
「ちょ、ちょっと……」
「あ、お姉ちゃん」
 栞は微笑むと、香里に向かって小さく手を振る。
「相沢、うまそうなもの持ってるな」
「……本気でそう思っているのか?」
「あたりまえだろ。こんなに絶好のアイスクリーム日和じゃないか」
 栞がぱっと顔を輝かせた。
「やっぱり、そう思いますか?」
「思う思う。やっぱりこういういい天気の日は、屋外でアイスを食べるに限るな」
「ですよね~」
「……北国の奴らはこんなのばっかなのか? もしかしたら、遺伝子レベルで体の作りが違うのか……」
「安心して。あたしもついていけないから。
 この二人は一般人のサンプルとしては不適切なのよ」
 情けない表情の祐一に、香里が潤の横から声をかけた。
「む~」
 栞が頬を膨らませる。
 確かに風はまだ冷たかった。昼の今はともかく、朝方はまだ吐く息も白い湯気になる。中庭には雪が残っている所すらあった。
 それでも、青空から降り注ぐ日差しは明らかに春めいて、木々は次第に緑を芽吹かせつつある。
 雪と氷に閉ざされた季節は、終わりを告げようとしていた。
「えっと、北川さん、でしたよね?
 よろしかったら、ご一緒にいかがですか?」
 栞がカップアイスを手にして訊ねた。
「お、いいのかい?」
「はい。祐一さんはちょっと根性が足りないようなので、アイスクリームを全部食べてくれそうにないんです。
 余ってしまったら、もったいないですから」
 傍らで祐一が、『どうとでも言ってくれ』とばかりに苦笑している。
「そういうことなら、喜んで。今そっちに行くから」
「はい。お待ちしてます」
 潤は窓際を離れると、香里の方を振り返って言った。
「さ、行こうぜ。美坂」
 香里は一瞬逡巡した後、にっこりと笑みを浮かべた。
 それは、頑なまでに心を押し隠す仮面を取り払った、無邪気な笑顔だった。
「うん!」

Fin.