ちょっと霞んだ感じの青空に、イワシみたいな雲が浮かんでる。
まだ少し空気は肌寒いけど、お日さまがぽかぽかと温めてくれるから、お気に入りのダッフルコートは家に置いてきちゃった。
そう、今日は絶好のハイキング日和なんだ。
「ゆういちく~ん、早く早く!」
街から電車で一時間ほどのところにある山の頂上を目指して、ボクたちは山道を歩いてる。
山といってもそんなに高くないから、登山って言うほどのものじゃないけど。
背中には、大きめのリュック。
でも、あのときの羽はもうない。
「おい、ちゃんと前見て歩かないと転ぶぞ」
祐一君がそう言ったとき……。
「わ、わわっ」
足元の砂利がずるっと滑って、視界が横倒しになる。
ぱふっ。
転んだ先が道端の草むらだったから、あんまり痛くなかったけど……。
「……うぐぅ」
「そら見ろ。言わんこっちゃない」
追いついてきた祐一君がボクの顔をのぞきこんで言った。
「とりあえず、怪我はないか?」
「大丈夫……」
ぱたぱたと駆け寄ってくる足音。
「あーっ、祐一があゆをいじめてる!」
「違うっ! こいつが勝手に転んだんだ!」
ボクより先に行っていた真琴ちゃんが戻ってきてくれたんだ。
「どうだか……。あゆ、大丈夫?」
「うん。ありがと」
真琴ちゃんの差し伸べてくれた手を掴んで、んしょと起き上がる。
「おっ、さすが真琴は保育園児の扱いに慣れてるな」
「うぐっ、ボク園児じゃないもん!」
「祐一っ、あゆをいじめたら駄目なんだからね!
まったく、祐一こそ好きな子にちょっかい出す園児じゃないの?」
あ、祐一君がちょっと赤くなった。
「ぐあっ、真琴らしからぬ攻撃を……。
とにかく、今度はちゃんと前見て歩けよ」
「うぐぅ……、そうする」
「『転ばぬ先のうぐぅ』って言うしな」
「言わないよっ!」
なんだかハイキング道を歩くよその人たちに笑われてる気がする……。
後ろから秋子さんの声がした。
「あら。みんな立ち止まって、どうかしたんですか?」
「くー……」
秋子さんの隣には名雪さん……って、もしかして寝ながら歩いてる?
「あ、ちょっとあゆが転んだだけです」
「あゆちゃん、大丈夫?
もし怪我したのなら、ちょうど軟膏を持ってきているけど……」
そう言って秋子さんがポケットから取り出したのは……。
――春の陽射しを受けてオレンジに輝く、謎の物体を収めた小瓶。
祐一君の、真琴ちゃんの、そしてボクの頬が引きつった。
「え、あ、だ、大丈夫だよっ。
どこも怪我なんかしてないもん!」
「あ、秋子さん。俺は先に行ってますからっ」
「あぅーっ、真琴も行く!」
「うぐぅ、二人とも置いていかないでっ!」
ボクたち三人は、大あわてでその場から逃げ出した。
「……とりあえず、ここまで離れれば安全だな」
「はぁ、はぁ……そう、だよね……」
「あぅ……恐かった……」
ボクと真琴ちゃんは息が切れてる。祐一君はまだ余裕がありそうだったけど、ボクたち二人を見かねて止まってくれたみたい。
「だらしないな、お子様コンビは。
鍛え方が足りないぞ」
「真琴は……お子様じゃ……ないわよぅ」
「ボク……祐一君と……同い年だもん!」
二人で抗議するけど、膝に手を突いた状態だから迫力が出ない。
しばらくしすると、ようやく息が整ってきた。
「そう言えば……名雪さん置いてきちゃったね」
「尊い犠牲によって俺たちは助かったわけだな」
祐一君が後ろを振り返って手を合わせる。
「あぅー。名雪、かわいそう……」
「でも、あのジャムって傷薬にも使えたんだね。ボクびっくりしちゃった」
「……あゆ。経口ですらあれほどの威力を持つジャムだぞ。
傷になんか塗り込んだら、血管から全身に回って『人間以外の何か』に変化させられてしまうかも……」
「祐一っ、変なこと言わないの!」
「さすがにそれは大げさだよ。
体にいいけどおいしくないものってあるよね。アロエとか」
「なるほど、そうかもな。
確かに、あの複雑な味の一翼をアロエが担っている可能性は、なきにしもあらずと言ったところか……」
祐一君はなんだか偉そうに顎に手を当ててそう呟くと、ふと気づいたように続けた。
「そう言えば……、今日の弁当にブツが混入されてるってことはないか?」
「真琴は、自分のは自分で詰めたから大丈夫」
「ボクもお手伝いしてたときに、自分の分はさりげなくチェックしたよ」
「……俺のは?」
「……」
「……」
二人で祐一君の肩をぽんぽんと叩く。
「……ぐあっ」
そのとき、一陣の風がボクたちの横を通り過ぎた。
長い髪を後ろになびかせてた女の子が、口元を押さえたまま走っていく。
すれちがいにちらっと見えた横顔は、涙目だった……。
「名雪、だな」
「名雪、ね」
「……うぐぅ」
その後ろ姿がみるみる小さくなってゆく。
リュックや水筒を下げているのに、凄いスピードだった。
「……あれは自己ベスト級の走りだな」
三人で、名雪さんに向かって合掌した。
「……空気がおいしいね」
森の香りがする空気を胸一杯に吸いこんで、ボクは言った。
木の枝の間から見える光はきらきらして、とっても奇麗だった。
「確かにな。こうやって自然に触れるのも、たまにはいいもんだ」
「祐一、頂上はまだなの?」
「……お前なぁ。
ちょっとはこの景色を堪能したらどうなんだ?」
「じゅうぶんタンノウしてるわよぅ。
でもお腹が空いてきちゃった……」
「あ、ボクも」
「言っとくが、頂上ではたい焼きも肉まんも売ってないぞ」
「大丈夫だよっ。
ちゃんと秘密兵器は用意してきたもん」
「真琴も~っ!」
「……お前ら、まさか」
「それは到着してからのお楽しみだよ」
歩いていくと、森が途切れて視界が開けた。
「わぁーっ」
真琴ちゃんが走り出す。
「……すごいね、祐一君」
「……」
山道が途切れて、谷が広がっていた。
下のほうには、谷川が光を反射して輝いてる。上流の右手には、ちょっと離れたところに小さな滝があって、水が流れ落ちているのが見えた。
そして、吊り橋が谷のこちら側と向こう側をつないでるんだよ。
谷底を覗きこんでいた真琴ちゃんがこっちに戻ってくる。
そして、祐一君を見て不思議そうに言った。
「なにやってるのよ、祐一」
祐一君は、とても奇妙なポーズを取っていた。
顔を両手ではさみ、口を縦に大きく開けて目を見開いてる。
体全体が左右に、Sの字みたいにカーブを描いてた。
あ、これって……。
「ボク知ってる!
えーと。モンクだっけ?」
「違うっ!」
祐一君は真顔に戻って言った。
「モンクはRPGとかに出てくる僧侶だろっ。
これはムンクの描いた絵、『叫び』の形態模写だ!」
「で、なんでそんな格好をしてるのよ?」
「『叫び』は橋の上で自然の悲鳴を聞いて、耳を塞いで身をよじらせている絵だって聞いたからな。
今の俺の心境はまさにそんな感じだ」
よく分からないことを言って、祐一君はまた『ムンク』になる。
うぐぅ。どうでもいいけど、その顔ちょっと恐いよ……。
「ふーん、つまり……。
祐一は恐いんだ、吊り橋が」
「うっ」
「なんだかんだ言って、祐一もお子様よね。
真琴なんか、ぜんぜん恐くないもん」
「ぐぁ……」
「あ、名雪が橋の向こうで手を振ってる。
じゃあ真琴は先に行っちゃうからね~」
真琴ちゃんは嬉しそうにそう言うと、吊り橋の上を走って行っちゃった。
「……結構揺れるみたいだね」
「俺、帰ろうかな……」
来た道に向き直った祐一君を、ボクは慌てて引き止める。
「わあっ、ダメだよ!
せっかくここまで来たんだから、帰るなんてもったいないよっ」
「そもそも、あゆ!
お前だって高所恐怖症じゃなかったのかっ?」
あ、祐一君逆ギレだよ……。
「ここまで高いと逆に恐くなくなっちゃうよ。
祐一君だって、いい景色だと思うでしょ?」
「……まあ、それを認めるにやぶさかではないが」
「だから大丈夫だよ」
「そんなに簡単に割り切れるのなら苦労はしないって……。
お前みたいな『にわか恐怖症』と違って、俺は筋金入りだからな」
「自慢げに言われても困るけど……。
ほら、二人も向こう側で呼んでるし」
真琴ちゃんと名雪さんが、対岸で飛び跳ねながら手を振ってる。
「しかし、なぁ」
「ボクが手を繋いでてあげるから、ね?」
「……あゆあゆの無邪気な笑顔を向けられ、俺は少し照れ臭くなって視線を逸らした」
って、どうしてモノローグ口調?
「うぐぅ、ボクあゆあゆじゃないもん」
「……あゆ、なんで考えていることが分かる?」
「思いっきり口に出してるよっ」
「ぐはっ、またか……」
祐一君はそう言うけど、なんとなくからかわれているような気もする。
「……うぐぅ」
山の頂上は少し開けた野原になっていた。
もうお腹ぺこぺこだから、早速大きなシートを広げてお弁当の準備。
シートの四隅に、祐一君が拾ってきてくれた大きめの石を載せて、風で裏返しにならないように固定する。
それからリュックの中に入ってたお弁当の包みを取り出した。
「お、今の『うぐぅ』って音、あゆの腹の虫だろ?」
「違うよっ! 祐一君の方から聞こえたもん」
「祐一、あゆちゃんをいじめちゃ駄目だよ~」
紙おしぼりで手を拭いてから、みんなで声を合わせる。
「いただきま~す」
ランチボックスを開けると、ボクは中にあったものを取り出した。
「……あゆ、それはなんだ?」
祐一君がこっちを見て固まってる。
「えへへ。これがボクの秘密兵器、『たい焼き型おむすび』だよっ」
たい焼きの焼き型にご飯を押しつけて作ったんだ。
尻尾の細くなってるところは、強化のために海苔を巻きつけてある。
「う~ん、たい焼きって言うより……。
パンダイルカじゃないのか」
「……うぐぅ」
確かにそうかも……。
「真琴は肉まん型おむすびっ!
いいでしょ祐一。でも分けてあげないからね~」
真琴ちゃんのおむすびは、半球状のご飯の上にねじったような筋がつけてあった。下側の平らな部分に、丸い海苔が貼ってある。
秋子さんが作ってくれたんだよ。
「お前ら……ベタすぎ。
まさか、中までオリジナルと同じだったりするのか?」
「それはないよ。シャケとタラコだもん」
「真琴のは肉そぼろだから肉まんっぽいでしょ?」
「あー、はいはい。分かった分かった」
「『はい』は一回でいいの!」
穏やかな春風の中、ボクたちはおむすびをほおばった。
秋子さんの料理はいつもおいしいけど、今日は普段よりももっとおいしい感じがするよ。
「あーかーいー、イチーゴーに♪」
名雪さんが自作の『イチゴの唄』を歌いながら、デザートのイチゴに手を伸ばしてる。
「……なんか、あの歌ってヤバくないか?」
「大丈夫だよ。
単語3つだけだし、形容詞×1、助詞×1しか共通点はないもん」
「……だがなぁ。タイトルだってあからさまに……」
「駄目だよっ」
ボクは祐一君を遮って、思わず周囲を見回した。
「『あれ』はオバケと同じで、話題にすればするほど寄ってくるんだよ!
ほんとはもう少し長く歌ってもらうつもりだったけど、なんだかほとんどそのまんまになりそうだったから、ちょっとまずいかなって……。
だからそれ以上は言っちゃ駄目!」
「そ、そうか?
……まあ、どっちでもいいが」
名雪さんが歌い終わると、今度は真琴ちゃんが名雪さんの隣で『肉まんの歌』を歌い始めた。
うぐぅ、でもそれって『キ〇肉マン』の歌なんじゃ……。
お弁当を食べ終えて、ボクと祐一君は野原の端っこまでやってきた。
ここからは、ちょうど森が切れて麓の町が見えるんだ。
春の、ちょっと霞がかかったような空気の向こうに、のどかな雰囲気の町並みが見渡せる。
そこを縫うようにカーブしている銀色の線は、もしかしたらさっき見た谷川から続いてるのかな。
「ほらっ。やっぱり帰らなくてよかったでしょ」
「ああ、確かにな……」
風に乗って、森のほうからは野鳥のさえずりが聞こえてくる。
「あれは何て言う鳥の鳴き声なのかな?」
「ん~、多分ホオジロじゃないか?」
「祐一君。物知りなんだ」
「いや、単にハイキングコースのパンフレットに載ってた野鳥は、それしか覚えてないだけなんだが……」
「……うぐぅ」
ボクは風に向かって手を広げると、目を閉じてみた。
まぶた越しに、お日さまの明るさが感じられる。
草の匂いと、鳥たちの歌声。
「とってもいい気持ちだね……」
ふと、温かい感触にボクは目を開く。
ボクは後ろから祐一君に抱きかかえられていた。
振り返ると、すぐ近くに祐一君の顔。なんとなく真剣な表情でボクの顔を見つめてる。
「……どうしたの、祐一君?」
祐一君は、ふと我に返ったようにまばたきした。
「あ、すまん……。
ちょっと、な。お前がこのまま、空気の中に溶けていきそうな気がして……」
……そっか。
ボクは祐一君の手に自分の手を重ねて言った。
「大丈夫だよ。ボクはどこにも行かない。
ずっと祐一君のそばにいるよ。
ボクにはもう、羽は必要ないから」
「……そうだな」
ボクはちょっと恥ずかしくなって、祐一君の腕の中から抜け出した。
振り向いて、祐一君に笑いかける――ちょっといたずらっぽい調子で。
「だから、安心していいよ。
帰りも手を握っててあげるからね!」
「ぐっ……。
唐突に嫌なことを思い出させるとは……。
見事な切り返しだ」
「祐一君の影響だよ」
「……吊り橋を通らずに山を下るルートはないのか?」
「多分、ないと思うけど」
「なら、俺はこのまま山の上で生活することにする」
「無理だよ~」
「あゆ。
何事も試みる前から諦めてたら、一歩も踏み出すことはできないぞ」
「うぐぅ……。正論だけど、今使う言葉じゃないと思う」
「じゃあ、橋を渡らずに下の谷川へダイビングするってのはどうだ?
それなら、揺れる吊り橋で恐い思いをすることもない」
「そっちのほうがよっぽど恐いもん……」
「……俺も言ってて恐くなった」
あ、また祐一君が『ムンク』になった。
「祐一君、その顔恐いからやめようよ……」
「いや、このポーズはヨガ的なチャクラの活性化で精神を落ち着かせるんだ」
「うぐぅ、訳分かんないよっ!」
ボクと祐一君は、いつものようにじゃれあう。
――そう、もうボクの背中に羽はないけど。
ずっとボクのそばに祐一君がいてくれる。それは、ボクの本当の願いだから。
だからね……。
「大丈夫、二人でいれば恐いことなんてないから、ね?」
そう言って、ボクは祐一君の腕に抱きついた。
Fin.