ひとかけらの結晶
2000-09-16 by Manuke

 眩しい朝日が、登校途中の生徒たちを照らしていた。
 刺すような冷たさを帯びていた空気も、今月に入ってからはいくぶん和らいできている。もっとも、冬の長いこの街に春が訪れるのはまだまだ先で、吐く息は白い霧となって朝日の中に消えていく。
(もう、1ヶ月以上になるんだ……)
 私、松本さつきは胸の中で独りごちた。
 そう、美坂さんが最後に姿を見せたのは1月の最後の週、そして今は3月だった。
 私はうつむき加減で足を運びながら、美坂さんのことを思い返していた。

 1学期の始業式に出席して以来、ずっと学校をお休みしていた美坂さん。
 3学期が始まってすぐのこと、彼女をお昼休みに中庭で見かけたとき、私はとても驚いた。
 美坂さんは1年先輩の男子生徒と、雪の積もった中庭で楽しそうにお話していたのだ。休んでいるはずの美坂さんが何故、と不思議に思った私は、その先輩――相沢祐一さんという名前だと、後で美坂さんから教えてもらった――が校舎内へ戻ってきたところで尋ねてみた。けれど、その人はなにも知らないようだった。
 ……少なくとも、その時点では。
 それからしばらくして、美坂さんは学校に登校してきた。
「体調不良でずっとお休みしていましたが、今日から授業を受けられることになりました。よろしくお願いしますね」
 そう笑顔で言って、美坂さんはぺこりとおじぎした。
 10ヶ月もの間学校を休んでいた美坂さんの復帰を、クラスのみんなが歓迎した。
 私はどちらかと言えば引っ込み思案なのだけれど、美坂さんとはお友達になることができた。始業式に言葉を交わしたのを覚えていてくれたのがきっかけになって、私たちはすぐに仲良しになれたのだ。
 繊細で、儚い感じの外見とは違って、美坂さんは明るくて元気だった。
 体育の時間こそ見学していたけれど、ほかの教科はずっと授業を受けていなかったとは思えないほど良く理解していて、逆に私たちが分からなかったところを教えてもらう立場になる始末だった。
 そして昼休みになるといつも、美坂さんは2年の相沢さんと一緒に昼食を取っていたようだ。
「……実は、昨日からお付き合いを始めることになったんです」
 月曜日、クラスメイトから相沢さんとの関係を問われたとき、美坂さんは頬を少し赤らめながらそう告白した。みんなに冷やかされて照れながら、美坂さんちょっとうれしそうだった。
 退屈な日常の連続に割り込んできた、少し風変わりな女の子。
 美坂さんはいつも楽しそうだったから、自然とクラスの雰囲気も明るくなった。ずっとお休みしていたことを忘れそうになるくらい、美坂さんはすぐにみんなの中へ溶け込んだ。
 でも、それは長くは続かなかった。
 次の週の月曜、美坂さんがまたお休みしたのを知ったとき、クラスのみんなが美坂さんを心配した。けれども、それが1週、2週と続くにつれ、美坂さんのことはまるでタブーのように話題に上らなくなっていった。
 全員が、言いようのない不安を感じていたのだと思う。
 クラスを代表して幾人かが美坂さんのお見舞いに行こうという意見も出たのだけれど、先生は明確な理由も言わずにそれを却下した――迷惑になるという、ただその言葉だけで。それがいっそうみんなの不安に拍車をかけた。
 私もみんなと同じだった。けれどもその不安以上に、私は美坂さんのことが心配だった。
 だから、私の知る中で唯一、事情を知っていそうな人――相沢さんに尋ねてみるほかにない。そう思った。
 HRが終わると、友達への挨拶もそこそこに私は教室を飛び出し、昇降口へと急いだ。2年の何組なのか知らなかったからだ。
 昇降口はまだ人影もまばらだった。どちらの階段から降りてくるのかも分からなかったから、2年生の下駄箱の前あたりで待つことにした。
 相沢さんはなかなか現れなかった。速攻で帰ったはずの私がまだいるのを不思議そうに見るクラスメイトたちに、ちょっと気まずい2度目の挨拶をしながら、私は壁にもたれかかって相沢さんを待った。
 もしかしたら行き違いになってしまったのか、そう思い始めたとき、ようやく相沢さんが同学年の男子生徒と一緒に現れた。
 私は気後れを感じながらも相沢さんに声をかけようとした。そのとき、相沢さんの顔色がひどく悪いのに気づいた。
「なあ、相沢……」
 隣の男子生徒が相沢さんに言った。
「なんだ北川?」
 素っ気なく答える相沢さんに、北川と呼ばれた生徒が心配そうに尋ねた。
「お前、本当に大丈夫か? 体調悪そうだぞ」
「ああ。ちょっと今日は睡眠時間の取りすぎで調子が出ないんだ」
 相沢さんはそう言って軽くため息をついた。
「確かに、寝過ぎると逆に頭がぼうっとなったりするよな。
 それで、何時に寝たんだ?」
「そうだな……、多分6時半あたりか」
 北川さんが絶句した。
「……お前、それは水瀬より凄いんじゃないか?」
 相沢さんは人差し指を立て、左右に振りながら言った。
「違うぞ北川。名雪の場合はPM、俺はAMだ」
 北川さんはあきれた表情になった。
「それは寝過ぎとは言わないだろ。
 つまり、ほとんど眠ってないのか?」
「……眠ると、夢を見るからな」
 相沢さんがぽつりと呟いた。
「そうか……」
 沈黙したまま、二人は私の前を通り過ぎた。私は声をかけそびれて、相沢さんの背中をただ見つめることしかできなかった。
 相沢さんの瞳に宿る痛みと焦燥感。それは美坂さんのことと無関係ではないはずだ。だから、私はそれ以上踏み込めなかった。
 恐かったのだ。その悲しみに囚われることが。
 自らの弱さに嫌悪感を抱きながらも、相沢さんを追うことができず、私はその場に立ち尽くした。二人の姿が視界の外へ消えた後も……。

 階段を上り、教室の入り口を潜ったところで予鈴が鳴った。
「……ふうっ」
 鞄を机の上に投げ出し、椅子に座ってため息をつく。
「おはよっ、さつき」
 隣から声がかかった。
「あ、おはよう恭子ちゃん」
 私の右隣の席に座っている恭子ちゃんは、面倒見が良くて誰からも好かれる性格の子だ。
「……なんか元気ないみたいだね。大丈夫?」
 恭子ちゃんが心配そうに言った。
「う、うん。なんでもないよ。ちょっと眠いだけ」
「そう? それならいいけど……」
 なんだか、いつかの相沢さんたちの会話みたいだ。そんなことを感じながら、私は鞄から教科書とノートを取り出し、机の中へ移した。
 そうこうするうちに本鈴が鳴り、遅刻すれすれ組の生徒が大あわてで教室へ駆け込んでくる。
 何気なく窓のほうへ視線を移すと、ガラス越しに澄んだ青い空が見えた。
 ここしばらく続いていた曇りがちの天気とはうって変わって、抜けるように青い空から穏やかな日差しが降り注いでいる。
 季節は、ゆっくりとではあるけれど着実に移ろい始めていた。今はまだ街のあちこちに残っている雪も、やがて跡形もなく消えてしまうのだろう。
 そうして私の中からも、わずか1週間だけの友人の記憶は薄れ、風化していくのだろうか……。だとしたら、あまりにも寂しすぎる。
 私がまたひとつため息をついたとき、教室の戸が開かれる音がした。視線を戻すと、担任の先生の後ろに一人の女生徒の姿があった。
 それは、美坂さんだった。一瞬静まった教室に、再びざわめきが走る。私もまた、驚きを隠せなかった。
 先生は教卓の前に来ると声を上げた。
「ほらほら、HRを始めるぞ」
 後ればせながら、日直の合図で礼をする。ざわめきが収まらないままだったが、先生は特に諌めることもなく言った。
「えー、知ってのとおり、美坂は2月の頭からずっと休んでいたわけだが、今日から学校に通えることになった。
 美坂、挨拶を」
 先生に促されると、美坂さんは笑顔で話し始めた。教室が静かになる。
「美坂です。
 また長い間休んでしまって、ご心配をかけましたけれど、今日から学業再開です。今度は年度末まで学校に来られると思います」
 美坂さんは一端言葉を切って、先生へ問いかけの眼差しを投げた。先生が頷き、美坂さんは続けた。
「私、皆さんに謝っておかなければいけないことがあります」
 謝るって、何をだろうか。
 みんなも疑問に思ったのだろう。また教室がざわざわし始める。
「1月の最後の週に登校したとき、私はお医者さまに『2月まで生きられない』と言われていました」
 教室が水を打ったようにしんと静まった。
 それは、みんなが漠然と抱いていた不安。そして私が半ば確信していた悲しみだった。目の前に突きつけられるのが恐くて、目を逸らしていたこと。私は体が震えるのを感じた。
「私の、最初で最後の学校生活になるはずでした。
 だから、死にゆく人間ではなく、普通の女の子として接してもらいたくて、そこのとを皆さんに黙っていたんです。
 ずいぶん身勝手ですよね」
(違うよ、美坂さんは何も悪くない……)
 体が、心が震えてその言葉は声にならなかった。
「奇跡でも起きなければ治らないと言われた私の病気……。
 けれど、起こらないはずの奇跡をもらって、私はここにいます。だから、あのとき言えなかった謝罪と、感謝の言葉を、今言わせてください。
 ごめんなさい。そして、本当にありがとうございました」
 美坂さんが笑顔のままそう言った。
 1月に1週間だけ登校したときも、美坂さんはいつもにこやかに微笑んでいた。少しも悲しげな素振りなど見せなかったのだ。
 起こらないはずの奇跡……。
 だとしたら、美坂さんは自分の死を受け入れて、それでもずっと笑顔でいられたということなのだろうか。
 小柄で華奢な少女の中に秘められた強さに、私は胸を打たれた。
 美坂さんは胸元に右手を添えると、ちょっと照れたように続ける。
「実は私、出席日数が足りないので進級は無理みたいなんです。
 ですから、皆さんと同じ学年でいられるのは今月いっぱいまでです。でも、学年が違ってしまっても、ずっとお友達でいてくださいね。
 それでは、クラスメイトとしては1ヶ月弱の短い間ですけど、またよろしくお願いします」
 美坂さんがぺこりと頭を下げた。
 まばらな拍手が次第に集まり、やがて割れんばかりの大音量となって教室の中に鳴り響く。
 私は思わず席を飛び出し、美坂さんに抱きついた。
「美坂さん!」
「松本さん……?」
 そこから先は言葉にならない。
 声を詰まらせ、ただ涙を流す私の背中を、美坂さんがそっと撫でてくれた。ほかの女生徒たちも、私たちの周りに集まってくる。
 拍手はなかなか鳴り止まなかった。

 3時間目の終わった休み時間、私を含めたクラスの女子はまた美坂さんの席の周りに集まっていた。
「……でもさ、来週からテストが始まるんだよね。ちょっと戻ってくるタイミング悪かったかも」
 恭子ちゃんがそう言うと、美坂さんは
「そうなんですか。私、ずっと病気がちだったものですから、定期テストを受けるのって初めてなんです」
 と嬉しそうに答えた。
「うう……、この子はほんとに健気なんだから。よしよし」
 恭子ちゃんが美坂さんを抱き寄せて、頭を撫でる。
「わ、そんなことする人嫌いです~」
 美坂さんは赤くなって、口癖になっている台詞を言った。
 くすくすとみんなの口から笑いが漏れる。
「ねえ、美坂さん。今日のお昼はどうするの? よかったら一緒に食べない?」
 そう言った山辺さんを、恭子ちゃんが止めた。
「駄目駄目。栞は先輩とお昼ご飯するんだから。
 そうでしょ?」
 美坂さんはちょっと照れながら答えた。
「はい。せっかくのお誘いは嬉しいんですけど、今日は特に……。
 早く祐一さんに病気が治ったことを報告したいですから」
 私は驚いて美坂さんに尋ねた。
「もしかして相沢さんって、まだ美坂さんが回復したことを知らないの?」
「ええ、そうなんです。2月以降は祐一さんには会ってません。
 1週間だけ、普通の女の子として接して欲しいとお願いしたんです。それ以上の時間は、お互いにとって辛くなるだけだからって。
 祐一さんは承諾してくれました」
 私は言葉を失った。
 その先に待つ絶望を含めて、相沢さんは美坂さんとともにあることを選んだというのか…。
「そのかわり、祐一さんに約束させられたんです。
 奇跡が起こって病気が治ったら、お昼ご飯を1回奢るって。だから、その約束を果たさなければいけないんですよ。
 それで今日は、おこづかいを多めに持ってきました」
 美坂さんは微笑んで、そう言った。
 なんて強いのだろう……美坂さんも、相沢さんも。
「その先輩って、たくさん食べる人なの?」
 私の左に立っていた由佳が言った。
「と言うより、容赦ない人なんです。
 ……実は、ちょっと自業自得なのかもしれませんけど。
 前に喫茶店で祐一さんに『何でも奢る』と言われたときに、ジャンボミックスパフェデラックスっていう大きなパフェを選んだことがあったんです。
 私が『何でも奢り』って言ったら、きっとその逆襲があるでしょうね」
 美坂さんは腕を組んで、わざと難しい表情を作った。
「それって、もしかして百花屋の……」
「確か、凄い値段だったよね……」
「うーむ、さもありなん」
 みんなが一様にうなずく。
「だから今日のお昼ご飯は、勝手にアイスクリーム食べ放題ってことに決めちゃうつもりなんです。
 どうも祐一さんはアイスクリームが苦手みたいですから」
 美坂さんは悪戯っぽい表情でそう言った。
 苦手とかいう以前に、まだまだ寒いこの時期に食べるものじゃないと思ったけれど、もちろん美坂さんもそれは承知の上だろう。
 実際、美坂さんのアイス好きは有名で、周りの女子たちも苦笑ぎみだ。
 食堂でカレー2杯分を食べる男子生徒と、その向かいで真冬にアイスクリームを口に運ぶ女生徒の組み合わせは、かなり周囲の目を引いたものだった。
 そう言えば、1月に中庭で美坂さんを見たときも、アイスを食べていたっけ。
 恭子ちゃんが呆れた表情で言った。
「まったく、栞もその先輩も変わってるよね。
 そこんとこがお似合いなのかもしれないけど」
「えっと……。
 私も、ってところはちょっと引っかかりますけど。
 祐一さんは確かに変な人ですね。意地悪ですし」
 美坂さんはそこで笑みを浮かべた。
「でも、あんなに優しくて、そして心の強い人を、私は他に知りません。
 好きになった人が、もうすぐいなくなってしまうと知っても、最後までずっと笑顔でいてくれる……。
 そんな素敵な人とお似合いだって言われるのは、とても嬉しいです」
 悲しさに直面しても、笑顔を失わずにいる……。それはきっと、ただ悲しみにくれるよりもずっと辛いのだろう。
 それでも、誰かの心を癒すために、笑ってみせるのだ。相沢さんも、そして美坂さん自身も。
 ――笑顔の向こう側に、さまざまな想いを隠して。
 私もこの人たちのように強くなりたい、純粋にそう思った。
「……美坂さん」
 かすれたような声で言った私の方を、美坂さんが見上げた。
「はい。なんですか?」
「相沢さん、お昼休みは中庭にいるよ。
 たぶん美坂さんがいなくなってからずっと……。晴れた日も、雪が降る日も、風の強い日も。
 きっと美坂さんを待っているんだと思う」
「……」
 美坂さんが一瞬、泣きそうな表情になる。
 でも、美坂さんはやっぱり笑顔を作って言った――目に少しだけ涙を浮かべたまま。
「はい、知ってます。……お姉ちゃんに聞きましたから。
 だから今日は先回りして、中庭で待ち伏せするつもりです。きっと……祐一さん……びっくりするでしょうね」
「そう……だね」
 私も微笑んで答える。ちょっとだけ唇がわななくのを感じたけど、それくらいは許してもらおう。
 ――だから涙はそのときまで取っておかなくちゃ、ね。

Fin.