「あ~あ、すっかり遅くなっちゃった」
私はため息をつきながら廊下を歩いていた。
放課後の校舎は差し込む夕日の色に染められ、ひたすら赤い。
所属しているクラブもない私は、本来ならばとっくに下校して、友だちと商店街あたりに繰り出している時刻だった。
恨めしきは日直、である。
だいたい、教師という立場を悪用して、いたいけな女生徒にプリントのコピーなどという重労働を課す輩には、天罰が下ってしかるべきだ。
(もう、みんな帰っちゃっただろうなぁ……)
友だち連中は薄情なのである。
とは言え、私が同じ立場だったら当然ながらとっとと帰るわけなのだけれど、それはそれ、これはこれ、というものだろう。
肩を落としながら開けっ放しだった教室の入り口をくぐった。
と、私は教室の中に一人の女生徒を認めた。
後ろ姿だったけれど、座っている席の場所と髪型から、誰かはすぐに分かった。
(……天野さんかぁ。苦手なんだよね)
なかなか、『一緒に帰ろっ』とは切り出しにくい。
なにしろ、ひたすら無口なのだ。話しかけてもろくに返事もしないし、休み時間は本ばっかり読んでる。
今日も午前中休んだかと思えば、午後から登校してきて、言い訳もなし。男性教師なんか適当に丸めこんじゃえばいいのに、要領が悪いと言うか……。
そういえば、少し前にも男子の先輩が教室に訪ねてきたことがあったけど、そのときもほとんど黙殺状態だった。
ちょっといい感じの先輩だったのに、もったいない。正直、あのときの天野さんの態度には腹に据えかねるものがあった。
前の学校から一緒だった子は、昔はあんなじゃなかったって言ってたけど、何かあったのだろうか……って、私には関係ないか。
誰もいない教室で、天野さんは何をするともなく椅子に座っている。背中を丸めて、肩を震わせて……。
……あれ? もしかして、泣いてるのかな。
「あ、天野さん。どうかしたの?」
考える前に声が出ていた。
天野さんはびくっと体を震わせると、こっちを振り向いた。案の定、頬が涙に濡れている。
「あ……」
どうやら私には全然気がついていなかったらしい。よほど驚いたのか声が続かないようだった。
「誰かにいじめられたの? クラスの奴ら?」
私の問いに、天野さんはふるふると首を横に振った。
「ち、違います。私は……」
「あ、もしかして、この間教室に来た先輩がらみ? あいつちょっと女ったらしっぽかったよねぇ。うんうん。
もし付きまとわれてるんなら、相談に乗るよ?」
つい調子に乗って、いらんことを言ってしまう。どうせ差し伸べた手を突っぱねられるに決まっているのに。
と、意外なことに、天野さんはくすっと笑みを漏らした。
「いえ、相沢さんに付きまとわれて困っているわけではありません。
女ったらし、の部分は否定しきれませんけれど……」
(……へえっ、笑うと結構かわいい感じじゃない)
いつも無表情だからよけいそう感じるのか、口元に微笑を浮かべた天野さんは、むしろ優しげに見えた。
私は天野さんの隣の机に腰かけて言った。
「そうなんだ。でも、無関係ってわけじゃなさそうだね」
私の言葉に、天野さんはまた驚いた表情になった。
「どうして、分かるんですか?」
「勘よ。私、よく鋭いって言われるんだ」
さっきの弁護は、『相沢さんが悪いわけじゃない』というニュアンスを含んでたみたいだったからだ。我ながら名探偵の素質があるかもしれない。
しかも彼女、その相沢先輩に惹かれていると見た。
天野さんは少し落ち着いたのか、ポケットからハンカチを取り出して涙をぬぐった。そして、おずおずと切り出す。
「あの……」
「ん?」
「何故、私に声を掛けられたんですか?」
「えっ。な、何故って……」
目を伏せて天野さんは呟くように言った。
「私、クラスでも嫌われてますでしょう」
「あ、うーと……」
さすがに、うんとは言えない。
あからさまないじめや無視、というのはなかったが、用もないのに天野さんに話しかける人間は皆無だった。
実際、天野さんを毛嫌いしている女子は少なくない。私だって、彼女に好感情を抱いていたとは言いがたい。
ただ、私としてはむしろ、天野さん自身がクラスの人間を拒否してる――他者との関りを嫌っているように見えたんだけど。
「……おせっかいなんだよね、私。
これもよく言われるんだ」
放課後の教室で一人泣いている子を放っておけるほど、サバサバしてないのだろう。そうなりたいとも思わないし。
天野さんは口をつぐんだ。気に障ったのかな、と一瞬思ったけれど、どうもそんな感じじゃなさそうだった。
ややあって、天野さんはぽつりと言った。
「結局、私もおせっかいだったのかもしれません」
「えっ?」
その言葉は予想外だった。
おせっかい、という言葉から連想されるイメージと、天野さんは正反対のように見えるからだ。
「相沢さんに関れば、また悲しい永別を体験することになると分かっていたはずなのに……。
それでも、あの二人を放っておくことができませんでしたから」
(永別……って、死に別れるってことだよね?)
なんだか予想とは違って、恋愛がらみじゃなさそうだった。しかも、かなり重い話みたいだ。
はたして、私がこれ以上踏み込んでもいいものだろうか。そう思わないでもなかったけれど、ここで後に引いたら女がすたるというものだ。
それに、今の天野さんは人との繋がりを求めているように思えた。
「もしよかったらさ、私に話してみない?
少しは気が楽になるかもしれないし」
「……とても信じられない話かもしれませんよ」
天野さんの視線は脅えを含んでいた。
――信じてもらえない。だから、話せない。
そう。それがきっと、天野さんが無口になってしまった理由なのだろう。
悲しくて、辛くて、それでも誰にも打ち明けられないのだとしたら、その痛みはどうやってやわらげればいいのか……。
それを知った以上、私は余計に天野さんを放っておけなくなってしまう。別におせっかいでも構わない。
だから、正直に言った。
「信じる信じないは、話を聞いた後じゃないと答えられないよ。
でも、天野さんが嘘をついたりしないっていうのは信じられる。そういうの、得意じゃないのは見ていれば分かるからね」
なにしろ、こんなにも自分を偽るのが下手なのだから。
「……分かりました。それでは、聞いていただけますか?」
「もちろん」
私が頷くと、天野さんは胸に手を当て、深呼吸した。ずっと誰にも言えなかったことを話してくれるために、勇気を絞り出しているのだろう。
そして天野さんは静かに語り始めた。
「ものみの丘、という場所があるのをご存じでしょうか?」
「うん、知ってる」
町外れの山の中腹にある丘。眺めが良くてすがすがしい場所だけれど、滅多に人が訪れることはない。林の中を抜けていかなければならないからだ。
「……あの丘には、ひとつの言い伝えがあります。
いつの頃からか、不思議な力を持った狐たちが棲みつき、人々に災いをもたらすという言い伝えです。妖狐の現れた村には災厄が訪れる、そう言われてきました」
その話は聞いたことがある。
そう、おばあちゃんに聞かせてもらったのだった。でも、災い、なんていう物騒なものじゃなく、もっと温かい感じのお話だったような……。
少し間を置いてから、天野さんは私を見て言った。
「狐は本当にいるんです」
……さすがに、にわかには信じられない話だった。けれども、天野さんは目を逸らさずこちらを見ている。
その瞳に嘘はない、そう思えた。私は頷き、先を促した。
「……ものみの丘に棲みついている狐たちは、言い伝えとは違って、人に害を加えるたぐいのものではありません。
人と触れ合い、その温もりを知ってしまった狐が、再びその暖かさに接することを求め、人の姿をまとって野に降りてくる。ただ、それだけなんです。
けれども、それは悲劇の始まりでもあります」
天野さんの肩は少し震えている。この話をすることは、天野さんの中にある悲しみを呼び覚ますことになるのかもしれない。
それでも、この子は一歩足を踏み出そうとしている。私は何も言わず、天野さんの話に耳を傾けた。
「……人の姿を取ること。それは不思議な力を持つ狐たちにとっても荷が勝ち過ぎる奇跡なのでしょう。
人の姿になった狐は、自分が何者だったのかを覚えていません。記憶を失い、何をするべきなのかも分からず、ただ温もりを与えてくれた人に会いたい、その気持ちだけを心にとどめて。
全てを失ってまでして手に入れた奇跡……、それすらも長くは続きません。
あの子たちは日に日に人間性を失っていきます。言葉をうまく話せなくなり、歩くことも苦手になり、ついには日常生活すらままならなくなってしまいます。
そうして、わずか数週間ののちにあの子たちは消えてしまうんです。
宙を舞う風花が温かい大地に惹かれて舞い降りながら、それに触れたがために消えていくように……。あの子たちは人の温もりの中でほんのわずかな時間を過ごしたあと、風の中にすうっと溶けていってしまうんです。
ただ悲しみだけを残し、全てが幻だったかのように……。
だからこそ、昔の人たちはそれを災いと呼んだのかもしれません」
天野さんは言いおえると目を閉じ、拳を胸元で握り締めた。
悲しく、切ない物語……。けれどもそれはただのお話なのではなく、現実に目の前で進行している、そう天野さんは言っているのだ。
「正直、実感は湧かないけれど……。
そういうこともあるのかもしれないね。
それに……」
私の言葉に、天野さんは目を開く。私は微笑んで続けた。
「……それに、私のおばあちゃんが狐のおとぎ話を聞かせてくれたとき、どうしてあんなに悲しそうだったのか、分かった気がする」
天野さんは小さく息を呑んだ。
「その、今日泣いていたのは、相沢先輩の……?」
私が語尾を濁しながら尋ねると、天野さんの瞳が翳った。
「はい。今日がお別れの日です。
相沢さんはあの子を……真琴をものみの丘へ連れて行くとおっしゃっていました。たぶん、今ごろは……」
窓の外に目をやると、夕日に赤く染まっていた校庭は、いつしか闇の帳が降り始めていた。
「……人と触れ合った狐たちが温もりを求めて人に会いに来ることが、彼ら自身にとって良いことなのかどうか、今でも分かりません。
それでも、相沢さんと真琴を見ていて、あの子たちはそれでも幸せだったのだと、ようやく思えるようになりました。
元気なときは、毎日校門で相沢さんを待って……。
その後も、ずっと相沢さんに側にいてもらって……。
真琴はとても、楽しそうでしたから」
「そうか、あの子だったんだ……」
校門で待っていた女の子だったら、私も見かけたことがあった。小柄で、不安げな目をした可愛らしい女の子。
疑っていたわけじゃないけど、にわかにそれは現実味を帯びてくる。
「天野さんに相沢先輩、それにもしかしたら私のおばあちゃん……。
言い伝えになるぐらいなんだから、たくさんの狐たちがそうやって人に憧れて、そしてたくさんの悲しい別れがあったのかもしれないね。
昔も、今も……」
「そう……かもしれません。
私たちが知らないだけで、今も多くの狐たちがこの街で人として暮らしているのかも……。
そう、もしかしたらこの街の人間の半分くらいが、狐の化身なのかもしれませんね」
私たちは顔を見合わせ、笑った。
天野さんの瞳からはまだ悲しみが消えてはいなかったけれど、人との関りを拒絶する雰囲気はもう感じられなかった。
「いつのまにか、外が暗くなってきちゃったね。そろそろ帰らないと……」
「ごめんなさい。私の話に付き合わせてしまって……」
天野さんが頭を下げようとするのを、私は押し止めた。
「いいって、クラスメイトじゃない。
ね、それより一緒に帰ろっ。確か家、一緒の方角だったよね?」
登下校中によく見かけるから間違いないだろう。けれど、そこで天野さんは戸惑いを見せた。
「あ、あの……」
「もしかして、これから用事がある?」
「いえ。あの、申し訳ありません。私、貴方の名前を存じあげなくて……」
すまなそうに言う天野さんに、私は苦笑する。
「あぅ、そうなの? おねえさんは悲しい……って、冗談。冗談だって」
また頭を下げようとする天野さんを制止する。
無愛想としか言いようのない普段とは違って、今の天野さんはむしろ素直すぎる感じがした。上品っぽい仕草や言葉づかいといい、もしかしたらいいとこのお嬢さんなのかもしれない。
「まあ、しょうがないよね。いろいろあったみたいだし。
私だって天野さんの下の名前、知らないしね」
「……美汐、です。天野美汐」
「そっか。じゃ、美汐って呼んでもいい?」
私は右手を差し出して尋ねた。
「あ、はい」
天野さん――美汐は頷き、おずおずと右手を伸ばす。
その手を握って、私は言った。
「私の名前はね……」
Fin.