あたしは病室でりんごの皮を剥いている。
置いてあった果物ナイフは、切れ味が悪く扱いづらい。おかげで少しいびつになってしまったけれど、どうせすぐに食べてしまうのだから構わないだろう。
あたしの左隣では、栞が背を引き起こしたベッドに座っていた。
ついさっきまでおしゃべりをしていたのだが、今は疲れたのか目を閉じている。眠ってしまったのかもしれない。
その様子に、ふとあたしは不安になる。担当医の叔父に完治を宣言してもらった今でも、目を閉じた栞を見ると、二度と目覚めないのではないかと気が気でない。
奇跡でも起きなければ治らないはずの栞の病――その奇跡が起きたことを、あたしはまだ信じられないのかもしれない。
一口サイズに切ったりんごに、床頭台にしまってあった小さなフォークを刺す。
「栞。りんご、切ったわよ」
「……ん」
あたしが声をかけると、栞はすぐに目を開けた。
「あ、ごめんなさいお姉ちゃん。ちょっと寝ちゃってたみたい」
「別に構わないわよ。眠いんなら、ベッド降ろす?」
「ううん、大丈夫」
「じゃあ、食べる? りんご」
「うん」
あたしが差し出した皿から、栞はりんごを一つ口へ運んだ。
「……おいしい」
そう言って微笑む栞。
「そう言えば、さっき面会に来たときに叔父さんに会ったんだけど、このまま順調なら、予定通り来週には退院できそうだって」
「じゃあ、春休み前には学校に行けるかな?」
「たぶん、ね。あんまり無理はしないほうがいいとは思うけど……」
「だって、クラスのみんなが心配してるだろうし」
「まあ、あんただけ進級できそうにないからね。新学期になる前に会っておかないと、先輩後輩に分かれることになるわね」
そうあたしが言うと、栞の頬がぷっと膨れた。
「そんなこと言うお姉ちゃん、嫌い」
とは言え、2月も終わろうとしているこの時点で、出席日数が10日に満たない栞が進級するのは無理というものだろう。
「分かった分かった。あとでアイス買ってきてあげるから機嫌直しなさいよ」
「ほんと?」
すぐに栞が笑顔に戻った。もとより、栞の『嫌い』は甘えたときに出る言葉だから。
「とにかく、どっちにしても同じ学校なんだからいつでも会えるわ。別に無理して3学期中に復学しなくてもいいじゃない」
「だって……、早く会いたいし」
栞は赤くなってうつむき、そう呟いた。誰に、は言わずもがなである。
「そっちが本音ね」
栞はますます赤くなる。
「でも、本当にいいの? 相沢君に言わなくて」
栞が最も辛いときに支えてくれた相沢君は、まだ栞が回復したことを知らない。栞に黙っていてほしいと頼まれたからだ。
「うん。びっくりさせたいから。
昼休みに中庭でばったり再会して、二人で抱き合ってわんわん泣くの。
ちょっとドラマみたいで格好いいでしょ?」
「全く……、相沢君も気の毒に」
もっとも、クラスメイトとして連日顔を突き合わせていながら、決して栞の容体を尋ねてこない相沢君もかなりのものだ。栞との約束のようだけれど、その意地っ張りなところはお似合いだと言えるのかもしれない。
実際、心配でたまらないだろう相沢君の前で、何もないかのように振る舞わなければならないあたしの身にもなってほしい。
(……結局、これは報いなのかもね)
栞を永久に失ってしまうかもしれない――その辛さに堪えかねて、初めから妹なんかいなかったんだと自分に言い聞かせ、栞の存在自体を心の中から消し去ろうとした、愚かな行為の報い。
けれども、だとしたらなんと幸せな報いなのだろう。
「栞……」
「なに、お姉ちゃん?」
あたしの表情に気づいたのか、栞は居住まいを正して答えた。
「本当に……ごめんね。
あたしは栞を支えてあげなきゃいけないのに、弱さに負けて逃げ出した。
あんたはいつも笑っていて、それを見ているのが辛かった。
もし相沢君がいなかったら……」
栞は困ったような表情になった。
「もう謝らないで、お姉ちゃん。悪いのは私だったんだから」
「栞はなにも悪くないわ。あたしが……」
言いかけたあたしの唇に人差し指を当てて、栞はあたしの言葉を制した。
「お姉ちゃんは気がついていたんでしょう? ……私が死のうとしていたことを」
「……!」
栞は遠い目をして言った。
「苦しくて、辛くて、恐くて……。
同い年の人たちが青春を謳歌しているのに、私の前には絶望しかなくて……。
だから、全てを早く終わらせてしまいたかった」
口元に自嘲的な笑みがふっと浮かぶ。
「馬鹿だよね。結局、自分のことしか見えてなかった……。
それがどんなにまわりの人を苦しめるのか、お姉ちゃんや、お父さんお母さんを悲しませるのか、考えようともしなかった。
悲劇のヒロインぶって、自分だけが不幸なんだと思いこんで……。
そんなの、見ていられないよね」
「栞っ!」
あたしは栞を抱きしめた。
「だからお姉ちゃん、自分を責めないで。
私だって、決して強くなんかなかった。だだ全てを諦めていただけ。
そんな私が最後まで病気と戦う勇気を持てたのは、きっとあの二人にたくさんのものをもらったから……」
「……あの二人?」
栞は目に涙を浮かべながらも微笑んでいた。
それは、見ているのが辛い全てを諦観した笑顔ではなかった。
「私は一生、あの日のことを忘れない。
死を決意したその日、二人に会ったことを。
私の全てを変えてしまった、あの出会いを……」
栞の瞳には、強い思いが宿っていた。儚く、触れるだけで消えてしまいそうな繊細さは影を潜め、最後まで目を逸らさず、笑っていられる強さがそこにはあった。
「ひとりは、祐一さん。
ちょっぴり意地悪で、とっても優しい、不思議な感じの人。
私の全てを受け止めてくれた、強い人。
好きになっちゃいけないって思っていたのに、駄目だった。初めて会ったときの予感はどんどん膨らんで、いつの間にか、それは恋になっていた。
祐一さんはたくさんの思い出を、人を愛する気持ちを、そして生きようとする意思を私に与えてくれた」
――相沢祐一。
彼がいなければ、栞とあたしがこうして語らうことなどあり得なかった。
相沢君と栞が出会ったことが、もしかしたら全ての始まりだったのかもしれない。
栞は静かに続けた。
「もうひとりは、一つ年上の女の人。
明るくて、楽しくて、温かい人。
ほんの数回会っただけの私を、昔ながらの友達のように扱ってくれた。
そして、夢の中で再会したとき、その人はかけがえのないものを私に与えてくれた」
栞がまぶたを閉じると、涙が零れ落ちた。
「夢の……中?」
「うん。
3週間前、私が生と死の境目を彷徨っていた日。
あの人は夢の中に現れた。私にプレゼントを、一生かかっても返せない大きなものを渡してくれるために。
信じてもらえないかもしれないけど、それがただの夢じゃないことを私は知っているから」
栞が言うことが本当なのか、あたしには判断できなかった。けれども、栞がそれを信じていることは分かった。
「……何をもらったの?」
栞は涙で頬を濡らしたまま少しだけ笑みを浮かべると、唇に人差し指を当てた。
「内緒、です」
栞が言わなくても、あたしには分かっていた。
――起こらないはずの奇跡。
それがどれほどあり得ないことなのかを、あたしは叔父の驚きを通して知らされた。姪の回復を願い、自ら不眠不休で治療にあたっていた、担当医である叔父の。
栞が見たのはただの夢なのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。あたしにはその真偽を確かめることはできないから。
それでも、ずっと心の底にあった不安が、少しだけ和らぐのを感じた。栞がここにいるのは、もしかしたら全てあたしの見ている夢なのではないか、という不安だった。
理由のない奇跡に理由が付けられたこと――自分のことながら、単純きわまりない。もしかしたら栞は、あたしの中の不安を知って、その話をしてくれたのかもしれなかった。
「私はいろんな人たちに、たくさんの優しさを分けてもらった。
お姉ちゃん。お父さんとお母さん。叔父さん。看護婦さんたち。クラスのお友だち。
そして、祐一さんとあの人に」
栞は穏やかに話し始めた。
「だから、その優しさを今度は私がお返しする番。
優しさを分けてくれた人たちだけじゃなく、これから出会うすべての人に。
巡っていった優しさが、また誰かの心を救ってあげられるように……」
『頑張ってね』
突然聞こえた女の子の声に、栞ははっと息を飲んだ。
あたしと栞のほかに誰もいない病室。声は部屋の外から聞こえたのだろうか。
けれども、栞は笑顔でその声に応えた。
「はい、頑張ります」
栞の頬はまだ涙に濡れたままだったけれど……。
それはあたしが見た中で一番の笑顔だった。
Fin.