2002-10-29 by Manuke

 ――とある冬の日曜日。
 昼下がりの午後に、俺は商店街の歩道を歩いていた。
 手にはCD屋で買ったアルバム――先日、栞に薦められたヒカシューとかいうグループのものだ――を持ち、染み込んでくるような寒さの中、家路を急いでいる。
 日の光は差しているが、風は冷たかった。
 以前よりもだいぶ慣れたものの、やはり寒いものは寒い。昨日の夜も晴れていたようだから、もしかしたら放射冷却現象というやつかもしれない。
 コートの襟を立て、身を縮こませながら歩いていたとき、遠くから聞き慣れた声が届いた。
「祐一くーん」
「……あゆ、か?」
 後ろを振り向くが、あゆの姿はそこにはなかった。
「ゆういちくーん!」
 今度は少し声が近い。
 しかし、周囲を見まわしても、小柄な少女はどこにも見当たらない。当然、前方にもだ。
「どいてっ、どいてっ!」
 声はすれども姿は見えず。どけと言われても、どきようがなかった。
 しかも、なんだかゴーッとかいう騒音まで聞こえてくる。
「あわわわっ」
 どげしっ!
 俺は成す術もなく、あゆの体当たりを受けた――上方からの。
「うう、どいてって言ったのに……」
「避けられるか、馬鹿者!」
 あゆの頭を軽くはたく。
「うぐぅ……」
 どうやら寒さに縮こまっていたせいで視線が上に向かず、あゆを見つけられなかったらしい……って、普通上を探したりはしないものだが。
 幸いなことに、二人とも怪我はないようだった。突っ込んだ先の雪がクッション代わりになったのだろう。
 傍らに落ちていたCDも、見たところケースが割れたりはしていないようだった。まあ、そういうのはあまり気にしないタチだけれども……。
「……で、どうして上から攻撃してきたんだ?」
 俺はあゆの方に向き直って問い詰めた。
「攻撃なんてしてないもん! ただ、うまくコントロールできなかっただけだよ」
 むくれたように答えるあゆ。
 そのとき、俺はあゆの格好がいつもと違うことに気付いた。
「あゆ、その背中に生えた羽は?」
「はね?」
 あゆの背負ったリュックには、羽が両側に付いていた。
 それだけなら普段通りなのだが、いつもの鳥の羽を模した白いプラスチックのものとは違い、赤くてまっすぐな硬質の翼が、やや上向きに突き出ている。生意気にも前進翼のようだ。
「あ、格好いいでしょ? もらったんだよ」
 あゆは嬉しそうに言った後、はっと顔色を変えた。
「そ、そんなことは置いといて……。
 とにかく、この場を離れなきゃ!」
「……どうして?」
 嫌な予感を覚えながら、俺は訊ねる。
「実は……追われているんだよ」
 あゆは深刻な顔で打ち明けた。
「お前なあ……。いい加減学習したらどうだ? たい焼き屋の親父だって、えらい迷惑……」
 ため息をついて言った台詞を、あゆはぱたぱたとミトンの手を振って遮った。よく見ると、そのミトンもいつものとは色違いだ。
「ち、ちがうんだよ! 今日は本当に食い逃げじゃないんだから!」
「じゃあ、なんで追われているんだ?」
「それは、その」
 あゆは俯いてもじもじすると、上目づかいに俺を見上げて言った。
「話せば長くなるんだけど……」
「どうせ時間はあるから、気にするな」
「複雑な話なんだけど……」
「大丈夫だ」
「実は……」

脱走と追跡のカノン

 ……事の始まりは、今から三十分ほど前のことなんだ。
 お昼ご飯代わりに買ったたい焼きを食べながら、ボクは雪道を歩いていた。買ったのは、いつものたい焼き屋さん。もちろん、ちゃんとお金は払ったよ。
 買ったたい焼きのうち四つを食べ終わって、最後の五つ目を取り出したとき、ボクはその異状に気付いた。
「こ、これは――」
 それは完璧なたい焼きだったんだよ。
 たい焼きっていうのは、ご存じの通り焼き型に生地とあんこを乗せて焼くよね? おじさんの腕はこの辺りではピカイチだけど、それでも焼き上がったたい焼きは少しずつ違うものになっちゃう。
 そして、量産されたたい焼きの中には、ごくまれにどんな名料理人にも真似のできない、完璧な精度を持つものが現れることがあるんだ。
「――ワンオブサウザント!」
 そう、まさにそれは千個に一つしか存在し得ない、究極のたい焼きだった。
 生地のはみ出し方、対称性、モールドの深さ、気泡のなさ、そして焼き具合。どれを取っても、至高というほかはなかった。ソムリエ・ド・タイヤキの異名を持つボクにして、かつて出会ったこともないほどの完璧さを持っていたんだよ。
 だけど、そのたい焼きに気を取られたのが良くなかったんだ。ボクは、足元に突き出ていた石に気付かず、それにつまずいてしまった。
「あっ、とっとっと……」
 ボクは、転んでもたい焼きだけは死守しようと身構えた。けれど運の悪いことに、ボクの転ぶ先には一匹のカエルがいたんだよ。
 そう、確かにこんな真冬にカエルが起きているのは変だよね。でも、そのときはそんなことを考えている余裕はなかったんだ。
 ボクは慌てて片腕をついて、カエルを避けた。なにしろ、この世で二匹目の平面ガエルを作ってしまうところだったからね。
 でも、そのせいでたい焼きは、ボクの手の中から飛び出してしまった。そして――
「ああっ、ボクのたい焼きが!」
 ――たい焼きは、道の脇にあった泉に、ぽちゃんと落ちちゃったんだよ……。
 金色をした、一風変わったカエルのケロ吉君(仮名)は、ボクの落ち込んだ様子にも知らん顔で、三段跳びにその泉の中に飛び込んだ。そして、後に残るのは二つ重なる波紋だけ。
「うぐぅ……」
 泉は青いくらいに澄んでいるのに、底が見えなかった。今落ちたばかりのたい焼きも、飛び込んだケロ吉君(仮名)の姿も、全く分からなかったんだよ。泉の周りは雪が積もっているのに、ちっとも凍った様子がないのも変と言えば変だった。
 諦めきれずにボクが泉を覗き込んでいると、突然泉の中央がゴボゴボ音を立てて湧き立ったんだ。
 ほら、小さい頃よくお風呂の中で、水を上に押し上げながら「怪獣出現~」とかやらなかった? ちょうどあんな感じに水面が波立ったんだよ。
 そして、どんどんそれが大きくなるとともに、泉は中からぴかーって青白く光ったんだ。
「わっ。な、なに……?」
 光が消えると、泉の上には女の人が宙に浮かんでいた。しかも、それはボクの知っている人だった。
「あ、秋子さん! どうして……」
「あゆちゃん、わたしは秋子ではありませんよ。泉の女神です」
 その人はにっこり笑ってそう言った。
 ピンクのカーディガンといい、仕草といい、どう見ても秋子さんそのものだったんだけど……。だいたい、ボクの名前知ってるし。
 でも、ボクだって命は惜しいからね。
「……えっと。女神様は何かボクにご用ですか?」
「ええ」
 女神様は持っていた買い物用手さげ袋から、三つのものを取り出したんだ。
「あゆちゃんがさっき落とし……」
「ボクが落としたのは、普通のたい焼きだよっ!」
 女神様の台詞を待たず、ボクは即答した。
 何故なら、女神様の取り出したのは三つのたい焼きだったから。それぞれ金、銀、そして『普通』の……。
 話の腰を途中で折られた女神様はちょっとがっかりした様子だったけど、すぐに気を取り直して続けた。
「よく正直に答えたわね。あゆちゃんには特別に、三つともあげましょう」
「女神様、ありがとう~!」
 ボクは女神様から三つのたい焼きを受け取った。
 それは確かに、今ボクが落としたばかりの、永久に失われたと思っていたたい焼きだったんだよ。あとの二つは特に欲しくはなかったんだけどね。食べられなさそうだし。
「それからもう一つ……」
 女神様がそう言って取り出したのは、黒いミトンの手袋だった。
「……これは?」
「大事なたい焼きを犠牲にしてまでカエルを助けようとした、優しいあゆちゃんにご褒美よ。
 この手袋は、あゆちゃんが危機に陥ったときに助けとなる、魔法のアイテムです」
「魔法の……手袋?」
 ボクが首を傾げると、秋子さん――もとい、女神様は頬に手を添えて言ったんだ。
「ええ。その手袋を付けると、心の中に『力ある言葉』が浮かぶのよ。
 それを唱えれば、きっとあゆちゃんの危機を救ってくれる力になるから」
 ボクはその手袋を受け取ると、コートのポケットへしまった。
「それじゃ、あゆちゃん。その正直な心を決して忘れないように、ね?」
 女神様がそう言うと、またぴかーっと辺りが明るくなった。
 そして光が消えると、女神様の姿はおろか、泉そのものがなくなっちゃっていたんだ。
「うぐぅ、何だったんだろう、今のは……」
 なんだか夢でも見ていたみたいだった。
 でもそれが幻じゃない証拠に、ボクの手の中にはたい焼きが三つあったんだ。ボクはそのうちの一つ、普通のたい焼きに目を吸い寄せられた。
 水の中に落ちたたい焼きなんて、普段だったら確かに食べないよね。たい焼き屋のおじさんは昔たい焼きを海で釣り上げて、それを食べたって言ってたけど……。そんなの塩水ばかりでふやけちゃってるはずだよ。
 けど、そのたい焼きは濡れた様子もなかったし、何より特別なものだったんだから。決してボクが食い意地が張っているってわけじゃないんだよ。ホントだよ?
 ボクは金と銀のをポケットにしまうと、本能の赴くままにそのたい焼きに頭からかぶりついた。
 ……だけど、全ては用意周到な罠だったんだ。いつの間にか、中身はすり替えられていたんだよ――ジャムに。
「……!!」
 それは例えるなら、地球が正体不明の敵と戦うことになって、スーパーシルフ級戦闘機で偵察しなくちゃならなくなるような、そんな恐ろしい味のジャムだった。
 でも、吐き出すわけにもいかないから、ボクは本能が拒否するのを押え込んで無理矢理それを飲み込んだんだ。だって、ちゃんと食べなきゃ失礼だもん。たい焼きの鱗の一枚一枚には七人のお侍さんが宿ってるって、昔から言うしね。
 その味のあまりの衝撃に、ボクは頭がクラクラする思いだった。だから、辺りの光景がおかしくなったことに、すぐには気付かなかったんだ。
 ボクが我に返ると、周りにあるものが全部、どんどん縮んでいくのが目に入った。道端の木なんか、はるか頭の上にあった枝がたちまち目線の高さになったかと思うと、あっという間にボク自身よりも低い背丈になっちゃったんだ。
 そして、周りに見渡せるもの全てが、ボクを中心に引き寄せられ、小さくなっていった。
 そこでようやく、これは周りのものが縮んでいるんじゃなく、ボクが大きくなっているってことに気付いたんだよ。
 辺りの景色は、いつの間にかボクの知らない場所になっていた。それは視点が変わったってだけじゃなくて、本当に見たこともない所だった。
「うぐぅ……。ここ、どこ?」
 もしかしたらファンタジーの世界にまぎれ込んじゃったのかな、とボクは思った。泉の女神様に会った時点で、もう普通じゃないしね。
 それにしても、大きくなったのがボクの体だけじゃなくて、本当に助かったよ。洋服やコートが元のサイズのままだったら、風邪を引いちゃうもんね。真冬だから。
 気がつけば、ボクの近くには大きなお城があった。もっとも、そのときのボク自身よりも小さいくらいだったけど。
 ボクはそれに近づいてみた。
 お城は七階建ぐらいで、見たところ人の姿は見当たらなかった。
 なんだかミニチュアのお城みたいに現実感がない感じで、ボクはてっぺんに置かれていた像をちょっとつついてみたんだ。そうしたら、それはぽろっと取れちゃったんだよ。
「あ、あれっ?」
 慌ててその像を元に戻そうとしたんだけど、取れちゃった像はうまくくっつかなかった。
 ボクはちょっと考えて、ポケットから取り出した金色のたい焼きを代わりにそこに置いてみた。たい焼きはちょうどそこにぴったりとはまり込んで、うまい具合に安定した。
「ま、いいよね……」
 像はたい焼きと同じくらいのサイズだったし、全体が金色だから、ちょっと見た感じでは区別は付きそうになかったからね。
 ボクが自分を誤魔化していると、下のほうから声が聞こえたんだ。
「わーっ! あんた、もしかしてあゆ?」
 ボクの足元にいたのは、真琴ちゃんだった――いつものように、ピロを頭の上に乗せた格好の。
「あっ、真琴ちゃん! うん、ボクはあゆだよ」
 真琴ちゃんは、ボクから見て5センチメートルくらいのサイズだった。もちろん、真琴ちゃんが小さかったんじゃなくて、ボクの方が大きくなってたんだけど。
「なんでそんなに大きくなってるのよぅ……」
「実は、かくかくしかじか……」
 ボクはしゃがみ込むと、真琴ちゃんに事情を説明したんだ。
 真琴ちゃんはボクのサイズに怯んでたようだった。それはそうだよね。身長は57メートル――あったかどうかは分からないけど、体重はたぶん550トンじゃきかないだろうから。ボクが転んだら、真琴ちゃんは無事じゃすまないもん。
 でも、真琴ちゃんはボクの話を最後まで聞いてくれた。
「……そのせいで、大きくなったわけ?」
「そうなんだよ。元に戻りたいんだけど、ボクどうしたらいいものか……」
「とりあえず、そのたい焼きの反対側を食べてみたら?」
 真琴ちゃんの言った言葉に、ボクはすごく驚いた。
「ええっ! ど、どうして?」
「前に読んだ本の中に、そんな話のがあったから。片方で背が伸びて、反対側で背が縮むってやつ。たしかそれはキノコだったけど」
「うぐぅ……。あのジャムを食べるのはちょっと……」
「でも、ほかに頼れるものもないんでしょ? とりあえず、試してみたらいいんじゃない?」
「……うん。ボク、やってみる」
 ボクは意を決して、手の中にあった食べかけのたい焼きを見た。そして、思い切って尻尾側に噛みついたんだ。
 ……前にも増して、それは恐ろしい味だった。
 そう、あたかも高性能戦闘機の雪風に「あんたとはもう、ようせえへんわ」って見捨てられて、「それって妖精の駄洒落?」ってボケたらハリセンで思いっきりはたかれちゃうような、それほどまでに恐ろしいジャムだったんだよ。
 以前と同じようにクラクラする感じがして、次の瞬間、ボクの体は縮み始めたんだ。高い位置にあった目線がどんどん下に移動していくから、なんだか落っこちているみたいでちょっと恐かったけど。
 気がつくと、ボクは真琴ちゃんの前にへたり込んでいた。ボクは元のサイズに戻っていたんだ。
「うーっ、どうなることかと思ったよ……」
「ほら、つかまりなさいよ」
 ボクは真琴ちゃんの手を借りて立ち上がった。
「ありがと。
 でも、よく元に戻る方法が分かったね。もっと大きくなっちゃうとか考えなかった?」
「別に、そうなっても真琴が困るわけじゃないし」
 このとき、ちょっとだけ殺意が芽生えたのは内緒だよっ♪
「とにかく、真琴のおかげであゆは元に戻れたんだからね」
 真琴ちゃんはそう言うと、ボクに手のひらを差し出した。
「えっと、何?」
「情報料。その手に持っている奴」
 ボクは、頭と尻尾がなくなった胴体だけのたい焼きをその手に乗せた。
「いらないわよっ、こんな毒劇物!」
 真琴ちゃんはたい焼きを道端に放り投げた。
「そうじゃなくて、そっちの金のたい焼きの方よ!」
「えっ。これ? これは……」
 ボクがもう片方の手に持っていたのは、さっきお城のてっぺんからもげちゃった像だった。
「別にあゆはそれに用はないんでしょ? だったら真琴がもらってもいいじゃない」
「……まあ、そうだけど」
 ボクがその像を手渡すと、真琴ちゃんはしげしげとそれを眺めて呟いたんだ。
「なんだか、たい焼きっぽくない変な形……。
 それにこれ、金メッキじゃないの?」
「あ、あはは……。うん、そうかも」
 ホントは、女神様にもらった金のたい焼きじゃなかったんだけどね。
 そのときだよ。唐突に、ボクの後ろから声がしたんだ。
「そのたい焼きは渡さない……」
 振り返ると、そこにいたのは舞さんだった。
「な、なによぅ! あんたもこれを狙ってるわけ?」
「おとなしく渡した方が身のため。何故なら……」
 舞さんはチャキッと剣を構えて続けた。
「……私は煮物に打つものだから」
「意味分かんないわよっ!
 なんで煮物が出てくるのよぅ。大体、『に』って何よ。『に』って?」
 舞さんは少し考える素振りを見せてから言った。
「……おでんに、舌鼓」
「なるほど……」
 ボクがポンとミトンを打ち鳴らすと、真琴ちゃんはわめいた。
「『なるほど』じゃなぁーいっ!」
「えっと、一応韻は踏んでるみたいだし、意味も通ってるし」
「踏んでりゃいいってもんじゃないわよっ! それに真琴はおでん種じゃなーいっ!」
「……真琴は細かい」
「絶対違うっ!」
 真琴ちゃんはそう叫んで、ぜいぜいと息を切らしていた。
「とにかく、おとなしく渡せばよし。さもなくば……」
「あんたなんかに、渡さないんだから!」
 真琴ちゃんはそう言い放つと、ピロを乗せたまま身をひるがえしたんだ。
「逃がさない……」
 舞さんも、真琴ちゃんの後を追って走り出した。
 二人はそのまま、あっという間に視界から消えてしまったんだよ。
「な、何? 何がどうなって……」
 ボクは混乱して、呆然とそこに立ち尽くしていた。
「わたしがその理由を教えてあげる」
 雪をぎゅっぎゅっと踏む音がして、今度現れたのは名雪さんだった。
「あっ、名雪さん! 理由って?」
「あの二人が金のたい焼きを欲しがっていた理由、だよ」
 名雪さんは静かにそう言った。
「あゆちゃんは金と銀のたい焼きを泉の女神様からもらった、そうだよね?」
「う、うん……」
 ボクが頷くと、名雪さんはやっぱり、と微笑んだ。
「実は女神様のくれる金のアイテムには、不思議な力があるの」
「不思議なちから……?」
「そう。
 一日だけ、どんな食べ物屋さんでも無料で食べ放題っていう、奇跡の力」
「――!?」
 名雪さんはそこで溜め息をついた。
「でも、可哀想に……。
 二人は、あれが本物の金のアイテムじゃないことに気付いてなかったみたいだね」
「そ、そうなんだよ! 金のたい焼きは、もうなくしちゃったんだ」
「うん、だけど……」
 名雪さんの目が、きらーんと光った。
「奇跡の力を持っているのは、金のアイテムだけじゃないんだよ」
 ボクは、はっとしてポケットを押さえた。
「まさか……!」
「そう。『金なら一つ、銀なら五つ』、だよ」
 名雪さんは、じりっとボクの方へ近づいたんだ。ボクは気圧されて後ろに下がった。
「……名雪さんは、ほかにも銀のアイテムを持ってるの?」
「銀のけろぴーと、銀の雪うさぎさん、そして銀のねこさんをね。断っておくけど、もちろん今は持ってないから。
 ほんとは金のけろぴーも手に入るところだったんだけどね」
「……どうなったの?」
「逃げられちゃったんだよ。だって、金のけろぴーはリアルタイプのぬるぬるのカエルで、しかも生きてたんだもん」
 じゃあ、あのときのケロ吉君(仮名)がそうだったのかな、と思ったけど、確かめるすべはなかった。
「名雪さん。取り合いはやめて、二人で一緒に使わない?」
「それは駄目。使えるのは一人だけっていうルールだから。
 あゆちゃんの持っている銀のたい焼きを手に入れれば、残すところあと一つ。わたしのイチゴづくしの野望を達成する日は、もうすぐだよ」
 追い詰められたそのとき、ボクの背後から調子っ外れの口笛が聞こえてきたんだ。
 今日はやたらと人が突然現れる日だった。
「あなたたちは……」
 名雪さんの目がすっと細められた。
 ボクの後ろから現れたのは、四人の見知った人だった。左から、公園で露店をやってるおねえさん、百花屋のウェイトレスさん、洋菓子屋の店員さん、そして……たい焼き屋のおじさん。
「天が呼ぶ、地が呼ぶ、人が呼ぶ。
 悪を倒せと我らを呼ぶ。
 聞け、悪人ども!
 我らは正義の戦士、商店街フードショッパーズ!」
「……ショッパーって、お客さんのことだと思うけど」
 決めポーズで宣言したおじさんは、名雪さんのツッコミにも耳を貸さなかった。
「さあ、嬢ちゃん。そんな邪悪なアイテムを使っちゃなんねぇ。こっちによこしな」
「……おじさん達は、どうして銀のたい焼きが欲しいの?」
 ボクは四人に訊ねた。
「そりゃもちろん、商店街の平和を守るためだ!」
 と、おじさん。微妙にスケールが小さかった。
「ああ、愛しの店長……。百花屋だけは命に代えても私が守ってみせます!」
 と、ウェイトレスさん。
「あたしは、別にどっちでもいいんだけど……」
 と、やる気のなさそうな露店のおねえさん。
「ふふふ……。アイスクリームにイチゴサンデー、たい焼き、肉まん、牛丼……。なんでも食べ放題……」
 と、洋菓子屋の店員さん。
「うぐぅ、思いっきりバラバラだよ……」
 しかも一人、全属性を網羅した大首領クラスの裏切り者が含まれてたし。
「さあ、おとなしく銀のアイテムを渡しな……」
 おじさんは、よくよく見ると屋台用発電機を背負っているみたいだった。しかも、横に超電子って書かれた紙が貼ってあったんだよ。
「渡しちゃ駄目だよ、あゆちゃん。
 あゆちゃんの銀のたい焼きは、わたしが使うんだから」
 名雪さんも、ボクの隙をうかがっていた。はっきり言って、絶体絶命のピンチだった。
 でも、そこでようやくボクは思い出したんだ。秋子さ――女神様からもらった、もう一つのアイテムのことを。
『あゆちゃんの危機を救ってくれる力になるから』
 女神様の言葉を信じて、ボクは素早くミトンの手袋を取り替えた。
 そうすると、ボクは体に力がみなぎってくるのを感じたんだ。
 そして心の命ずるままに、左の拳をおじさんたちの方へ突き出し、『力ある言葉』を唇に乗せた。
「……○ケットぱぁーんち!」
 ゴーッっていう音とともに、黒いミトンがボクの手から飛び出した。
「な、何ぃっ!」
 手袋は炎を曳いて、ウェイトレスさんと洋菓子屋店員さんの間の地面へ突き立った。そして、地面に積もっていた雪を吹き飛ばしたんだ。
「うわっ……!」
「キャーッ!!」
 四人は左右に倒れ込んだ。全員、目を回している様子だった。
「今だっ!」
 ボクはダッシュしてミトンを拾い、そのままの勢いでおねえさんたちの間を走り抜けた。
「……逃がさないよーっ」
 ボクを追いかけてきたのは、名雪さん一人だった。
 糸目で走ってくる名雪さんはちょと恐かった。でも、あれはたぶん眠っていたわけじゃないと思う。エスキモーの人たちが使う遮光器と同じで、雪目を防ぐための生活の知恵なんだよ、きっと。
 はっきり言って、そのままじゃ捕まっちゃうのは時間の問題だった。だって、向こうは陸上部の部長さんだからね。普通に走っていては逃げ切れるはずないよ。
 ボクはなるべくジグザグに走って時間稼ぎをした。そして、勝機を待ったんだ。
 その間にも、ボクと名雪さんの差はどんどん縮まっていった。そして、もう少しで捕まりそうになったとき、ボクはようやく目的のものを見つけた。
 ボクは頭からスライディングすると、それを捕まえて腕に抱えた。そして、追いかけてきた名雪さんに向かって叫んだ。
「必殺、ねこさんミサーイルっ!」
 ねこさんはボクの手を離れて、名雪さんの腕の中に収まった。
「えっ、あれっ? ねこさん?」
「ふにゃあっ」
「ねこーねこーねこー」
「にゃうっ、みゃあ」
「ねこーねこーねこーねこーねこー……」
 名雪さんは、ねこモードに入ってしまった。ねこさんはちょっと迷惑そうだったけど。
「ごめんね。ねこさん、名雪さん!」
 ボクは一言謝って、その場を逃げ出した。
 名雪さんのねこモードはいつ解除されるか分からなかったし、商店街のおじさんたちもきっと追いかけてくるはずだった。さらに真琴ちゃんと舞さんも、いつあれが偽物だと気がつくとも知れないからね。
 とにかくボクは距離を稼ごうと走りに走った。
 息が上がって、それ以上走れなくなったとき、ボクはようやく知っている場所に出た。
 そこは、噴水のある公園だった。そして、噴水には一人の女の子が腰かけていたんだ。
「あっ、あゆさん。こんにちはです~」
 栞ちゃんはボクを認めると、咥えていた指を離して手を振ってきた。
「……ま、まさか……栞ちゃんも……?」
 ボクは膝に手を置きながら、切れ切れに問いかけた。
「えっと、なんのことです?」
「栞ちゃんも……ボクの銀のたい焼きを、狙ってるの?」
「ああ、そのことですか。
 大丈夫ですよ。私はみなさんと違って、そんなに食い意地は張ってませんから」
「うぐぅ……何気にキツいよ……」
 でも、確かに栞ちゃんは小食だし、むしろ人にたくさん食べさせる方が好きみたいだからね。ボクはほっとして、栞ちゃんのそばへ行って隣に座った。
「はぁっ……ボクもう、くたくた……」
「なんだか大変そうですね。とりあえず、深呼吸したほうがいいと思いますよ?」
「うん……そうだね」
 深呼吸を繰り返すと、ようやく息が整ってきた。そこでボクは、さっき気になったことを栞ちゃんに切り出した。
「ところで栞ちゃん、余計なお世話かもしれないんだけど……」
「はい、なんでしょう?」
「あんまり、噴水の水は口に入れないほうがいいと思うよ。バイキンとかいっぱいいるかもしれないから」
 栞ちゃんはギクッと肩を震わせた。
「えっ。な、なんのことですか?」
「さっき見ちゃったんだよ。栞ちゃんが噴水に指を浸けて、それを舐めたのを」
 がっくりと肩を落とした栞ちゃんは言った。
「えぅ……、見られちゃったんですね。
 あの、誰にも言わないでほしいんですけど……。実はこの噴水、バニラ味なんです」
「……えっ? ええ~っ!」
「あゆさんも舐めてみれば分かりますよ」
 栞ちゃんの言葉に従って、ボクは片方の手袋を外すと噴水の水面に人差し指を浸した。水はしびれるような冷たさだった。
 濡れた指先を鼻先に近づけると、微かに甘い香りがするような気がした。思い切って指を口に含むと、口の中いっぱいにバニラアイスクリームの風味が充満したんだよ。しかも、極甘の。
「……ほんとだ。でも、どうして?」
「それはきっと、聞いちゃいけないお約束なんですよ。ファンタジーなんですから」
 栞ちゃんは微かに笑みを浮かべた後、俯いて続けた。
「私はそんなお約束は嫌いじゃないです。
 だって、辛いのは現実だけで十分ですから……」
「……栞ちゃん」
 栞ちゃんは突然立ち上がると、拳を握り締めて言った。
「でもやっぱり、辛(から)いのは現実でも嫌です!
 聞いてください、あゆさん。お姉ちゃんったら酷いんですよ!」
「え、あ、あの……」
「昨日のウチの夕食はカレーだったんです。いつものように、私だけ家族とは別の、レトルトのお姫さまカレーを食べるつもりでした。
 で、お皿にご飯を半分よそって、レトルトの封を切ってカレーを出したまでは良かったんですけど、一口食べて私は死んじゃうかと思いました。
 中身だけ、お姉ちゃん達の食べている激辛カレーにすり替えられてたんです!
 信じられますか? 人として決してやってはいけないことを、お姉ちゃんはしたんです!」
「うぐぅ……。その気持ち、分かるかも……」
 ボクもついさっき、残酷な中身のすり替えをやられたばかりだったからね。
「あゆさんもそう思うでしょう?
 わざわざ下の方を切り開いて、カレーを入れ換えた上で、一見してそれとは分からないように透明テープで封をしてあるという極悪さでした。
 しかも、お姉ちゃんを問い詰めたら、『栞、あんたのためなのよ。とうがらしに含まれるカプサイシンは免疫機能を活性化するし、がん予防効果も注目されてるんだから』とか言ってましたけど、絶対ただの口実です。
 なにしろ、私があまりの辛さに半泣き状態だったときに、横でお腹を抱えて笑っているような人ですから。
 カプサイシンのがん予防効果だって、きっとあまりの毒性にがん細胞がやられちゃうのに決まってます!」
 栞ちゃんは言い切った。
「とうがらし農家の人が気を悪くするんじゃないかなあ……」
「いいんです。それは悪の枢軸も同然の人たちですから。
 とにかく、私はこの噴水の水を使って、お姉ちゃんにリベンジをするつもりなんです」
「それは、まさか……」
「はい。晩ご飯に混ぜます。
 今日は確か鱈の切り身を焼いたものに、五目煮、お吸い物、そしてご飯という取り合わせですけど、それ全部にこのバニラ水を使うつもりです。
 本物のバニラと違って匂いはほとんどありませんから、口に入れるまでは気がつかないでしょうね」
「うぐぅ……。バニラ味の焼き魚……」
 ボクは心底、香里さんに同情したよ。まあ、自業自得ではあるんだけど。
「ですから、あゆさん。この噴水の水のことは内緒にしてくださいね。特にお姉ちゃんには」
「うん、それはいいけど……」
「ありがとうございます。
 そうだ! お礼にいいものを差し上げますね」
 栞ちゃんはそう言うと、スカートのポケットから赤くてまっすぐなものを取り出したんだよ。……どう見てもポケット自体より大きかったけど。
「し、栞ちゃん。それは……」
「ジェット○クランダー、です」
「……ジェット?」
「はい。○ェットスクランダー、です」
「栞ちゃん、それ伏せ字になってない……」
「気にしたら負けですよ。
 さあ、取り付けますから、ちょっと立ってください」
 栞ちゃんはボクの手を引っ張って立たせ、背中側にまわった。
「でも、なんでジェットなの?」
「パワーアップと言ったらジェットエンジンが定番です。
 ビッグウィングは効果が小さいですし、ロケットエンジンは速すぎて実用的じゃありませんから。
 7ウェイみたいに、時間制限もありませんしね」
「うぐぅ、ボク別にお父さんと戦ったりはしないんだけど……」
「……はい、取り付け完了です」
 栞ちゃんはそう言うと、ちょっと後ろに下がって仕上がりを眺めた。
「左右のバランスも大丈夫なようですね。あゆさん、格好いいですよ」
「えっ。そ、そうかな?」
 格好いいなんて言われることは滅多にないから、ボクちょっと照れちゃった。
「はい。この広い空はあゆさんのものです。
 とりあえず、助走をつけてジャンプするだけで空を飛べるはずですよ」
「そうなんだ……」
 栞ちゃんはそこで真面目な表情になった。
「あゆさん……。
 今のあゆさんにはまだ、理不尽な運命に抗うだけの力はありません。
 ですけど、第一のアイテム『正義の手袋』、そして第二のアイテム『愛の翼』に続いて、第三の魔法のアイテムを手に入れたとき、それは変わります。
 探してください。最後の、友情のアイテムを。
 そのときこそ、あゆさんが奇跡の具現者となるんです!」
「うん。ありがとう、栞ちゃん! ボク頑張ってみるね」
 ボクは栞ちゃんにお礼を言うと、走り出した。
 そして大地を蹴って、紅の翼で大空へ羽ばたいたんだ……。

「……公園から商店街まで飛んできたとき、ボクは祐一君の姿を……って、あれ?
 ゆ、祐一君! どうしたの?」
 独白口調に身振り手振り、声真似までして熱演を繰り広げたあゆの前で、俺は敗北感に打ちひしがれ、がっくりと膝を突いていた。
 ……長かった。
 しかも、本当に複雑だった。
「あゆ、今日のところは俺の負けだ……」
「えっ。どういうことかな?」
「いや、何でもない」
 俺は立ち上がると、膝に付いた雪を払った。
「ところで、あゆは追いかけられているんだろ? こんなところで油を売ってていいのか?」
 俺の言葉に、あゆは青ざめた。
「わ、忘れてたよ~! ボク、おしゃべりしている暇はなかったんだった」
 あゆは慌てて周囲を見まわすと、俺に言った。
「祐一君、ボクはそろそろ行かなきゃいけないから」
「ああ、頑張って最後のアイテムを探してくれ」
「うんっ、そのときこそ、ボクが奇跡を手にするんだよ!
 それじゃあ祐一君、またねっ」
 あゆは数歩走り出した後、両手を前に突き出してジャンプした。
 転ぶ……と思ったが、そうはならなかった。そのままあゆは、地上二メートルぐらいの高さをよたよた、じたばたと飛び始めた――胸に『中』のマークを張りつけた、某米国英雄よろしく。
「……疲れてるんだな、俺」
 ため息を一つだけつくと、俺は何も見なかったことにして家へ向かって歩き出した。

 次の朝、俺はいつも通り名雪が起きたのを確認した後、階段を降りてダイニングへ入った。
「おはようございま……あれ?」
 テーブルには朝食の用意がされていたものの、秋子さんの姿はそこにはなかった。キッチンを覗いてみるが、そこにもいない。
 テーブルの上のトーストとコーヒーは、今まさに出来立てというように湯気を立てている。手に取って見ると、熱いトーストの上に塗られたバターは、まだ溶けきってすらいなかった。
 まるでマリーなんとやらという船の怪事件のようだな、と妙なことを考えたとき、俺はリビングから物音が聞こえるのに気付いた。
「秋子さん……?」
 リビングに入っても、やはり秋子さんはいない。代わりに、テレビが騒がしい音を立てていた。
 俺はふとその画面に目をやり、凍りついた。
「……!」
 そこに映し出されていたのは、中部地方にある城の天守閣だった。
『何者かがすり替えて……』
『天守閣の上には、黄金のたい焼きが……』
『噂では、巨大な天使の少女の姿を目撃したと……』
 レポーターが叫んでいるのを聞くとはなしに聞きながら、俺は独りごちた。
「あゆ……。まさかシャチホコを真琴にくれてやったのか……?」
 呆然としていたせいで手元がおろそかになったのか、俺は思わずトーストを取り落としてしまった。
「あっ……」
 トーストを視線で追った俺は、その落ちていく先にあるものを見て、ついに覚悟を決めざるを得なかった。
 何故なら、そこにはリビングにあるはずのないもの――底知れぬ深さを持った泉が、蒼い水を湛えていたのだから……。

Fin.