果てしなき河の先に
第七話・ゆく河の流れは絶えずして
2004-11-09 by Manuke

 白で統一された室内は、清潔に保たれていた。
 空気は清浄で、最初は感じていた薬臭さも既に分からなくなっている――結局のところ、すぐに慣れてしまうものなのだろう。
 そして、病室には重苦しい沈黙が横たわっていた。
 ベッドの周囲を俺、汐、オッサンと早苗さんが取り囲み、そこに身を横たえた風子を見守っている。ベッドサイドで公子さんが椅子に腰かけ、顔を蒼白にして風子の手を握っていた。その傍らには、椋が看護師として付き添う。
 その場にいる全員が、未だ目を覚まさない風子のことを案じていた。アパートで意識を失ってから一時間余り、目を閉じたままの風子の額には汗が浮かび、呼吸も荒い。医師の診察結果を聞いた公子さんの顔色が優れないのも、なおのこと心配になる一因だった。
 と、そこでドアが開き、息せき切った芳野さんが部屋へ飛び込んできた。芳野さんは俺を認めると、間髪を入れずに尋ねてきた。
「岡崎っ。風子は……?」
「まだ、意識が戻ってないです」
 俺は左手で風子の眠るベッドを示して、そう答えた。俺の言葉で心配になったのか、反対側の手に繋いだ汐が俺の指を強く握ってくる。
「祐くんっ!」
 公子さんが立ち上がり、芳野さんの元に駆け寄った。芳野さんは黙って頷いて、公子さんの肩をそっと抱いた。
「すんません、芳野さん。仕事の方を任せっきりにしてしまって」
 風子が倒れた後、俺は救急車を呼んで病院まで付き添った。職場復帰一日目にして早くも仕事を早退することになってしまった形だ。芳野さんや親方に申し訳なく思い、頭を下げると、
「お前のせいじゃない。むしろ、風子が倒れたときに岡崎がそこにいてくれて助かった」
 と言ってくれた。さらに、芳野さんは俺に聞いてくる。
「……それで、風子が倒れたのはどういう状況だったんだ?」
「あ、はい。俺にもよく分からないんですけど――」
 問われた俺は、とりあえずアパートに戻った辺りから状況を説明し始めた。照れている場合じゃないので、端折ったりせずにありのままを。
 そもそも、この部屋にいるのは俺と風子にとって親しい人達ばかりだ。恥ずかしいことなど何もない。
「――風子がぐったりしたままだったんで、すぐに119番で救急車を呼んだんです。それから芳野さんと公子さん、早苗さんに連絡を入れた後、やってきた救急車に同乗して病院に直行しました」
 俺が説明を終えると、腕を組んで難しい表情をしていたオッサンが唸った。
「う~ん……。その話を聞いた限りじゃ、どうやら風子は自分の体について何か知ってたんだろうな」
「そう……なんだろうか?」
 俺が聞き返すと、オッサンは頷く。
「たぶんな。てめえの求婚を断ろうとしたのは、多分そのせいだろ」
 傍らの早苗さんもオッサンの意見に同意する。
「わたしもそう思います。風子ちゃんはとても優しい子ですから、二人が一緒になった後でもし自分が倒れることがあったら、きっと朋也さんを深く悲しませると考えたんでしょう。
 風子ちゃんが朋也さんと汐を愛してくれていたのは間違いありませんから」
 動転していてそこまで思い至らなかったが、風子がどうしてあんなことを言ったのか、確かにそれで説明が付くのかもしれない。
「でも、俺はてっきり風子の体は良くなったものだと思ってたんです。風子はもしかして、まだ完治してなかったんですか?」
 それはレストランの前で風子が倒れたときにも一瞬考えたことだった。あのとき俺が気をつけていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。
「俺が聞いていた限りでは、元通りと言ってもいいくらいに回復したということだったが……」
 そう答えた芳野さんは、腕の中の公子さんに優しく語りかけた。
「それで、医者は風子のことを何と?」
 風子の容体のことだろう。他人の俺達が聞くべきではないかもしれない。
「あの……。俺達、席を外しましょうか?」
 俺がそう申し出ると、公子さんは芳野さんの胸から顔を離し、横に振った。
「いえ、皆さんに聞いて欲しいと思います。特に岡崎さんには」
 公子さんは浮かんでいた涙を拭うと、言葉を続けた。
「ふぅちゃんは……元の状態に戻りつつあるって先生はおっしゃいました。回復する前の、怪我が酷かった頃の状態に」
「な……」
 呟いて、俺は絶句する。俺だけじゃなく、椋と汐を除く全員が驚いていた。状況を知っているらしい椋も、悲痛な表情をしている。
「病気ならともかく、怪我でそんなことが起こるもんなのか?」
 オッサンが俺達の言葉を代弁してくれた。
 汐は言葉の理解はしていないだろうが、みんなの驚きを感じ取ったのだろう。俺の足にしがみついてくる。
「先生にもその理由は分からないそうです。まるで時間を巻き戻しているようだって。
 元々、ふぅちゃんが回復したこと自体が奇跡だと言われていました。また歩けるようになるのは無理だと断言されるほどの、酷い怪我でしたから。それでもわたしは、ふぅちゃんが笑顔を取り戻せるなら理由なんて構わないと思っていたんです。
 それなのに……こんな……ことって……」
 公子さんはボロボロと涙をこぼした。この人の、妹である風子への愛情が強く伝わってきて、胸が痛む。
 しかし、公子さんがほのめかした通り、何らかの理由により風子を回復させた奇跡がキャンセルされたのだとしたら――俺にはひとつ、心当たりがあった。
「泣かないでください……おねぇちゃん」
 ふいに、弱々しい声がベッドの方から聞こえてきた。
「ふぅちゃんっ!」
「風子っ」
「ふーこさんっ」
「風子ちゃん!」
 俺達がベッドへ駆け寄ると、風子は苦しそうな様子ながらも目を開いていた。公子さんは風子の手を取ると、しゃくりあげながら風子に尋ねる。
「ふぅちゃん……どうして、こんなことに……?」
 風子は微かに笑みを浮かべると、姉に向かって言った。
「風子、覚悟はできてました。だから、悲しまないで欲しいです。
 風子はおねぇちゃんとユウスケさんの結婚式を見ることができました。岡崎さんと汐ちゃんと、楽しい時間を過ごすこともできました。もう、悔いはありません」
 そして、俺に視線を移した。
「岡崎さん。風子、気を失っちゃったみたいですね。ごめんなさい」
「そんなこと、謝らなくていいんだ。お前のせいじゃない。それよりも、聞きたいことがある」
「……はい」
 静かに答える風子。俺は気持ちを落ち着けようと大きく息を吐き、そして切り出した。
「あの雪の日、絶望に陥っていた俺の前にお前が現れて、不思議な光のかけらを汐に与えてくれたんだったな。汐はそのときから回復して、また幼稚園に通えるまでになった。
 だけどその一方で、お前は体調を悪くして、ついには倒れちまった。まるで――まるで何かの代償を支払うみたいに」
「――」
 黙ったまま風子はこちらを静かに見つめている。その顔に、俺は疑問を問いかけた。
「あの光のかけらは、お前の命だったのか?」
 周囲から息を呑む気配が伝わってくる。当然だろう。今まであの出来事は誰にも話していなかったのだから。
 俺は汐が回復したことを手放しで喜んでいた。また幸せな日々に戻れるのだと、それをもたらしてくれた風子に感謝して。
 けれども、その陰で少女が命を差し出していたのだとしたら、俺はどうすればいいのだろうか。自分達の幸福の裏で風子が犠牲を払っていたとしたら、それを甘受してしまうことなどできるだろうか。
 しかし、風子は俺の言葉に対して首を横に振る。
「風子、あの光がなんなのか知らないです」
「誤魔化さないで、はっきり言ってくれっ」
 そう懇願する俺をまっすぐな瞳で見返して、風子は答えた。
「誤魔化してません。あの光は、岡崎さんからもらったものだからです」
 何を――と言いかけて、俺は言葉を途切れさせた。
 公子さんと初めて出会った日。俺は渚と二人で、入院しているという公子さんの妹が回復することを願った。そのとき俺は空に向かって、集めた光のかけらをひとつ放ったのではなかったか。
 けれど、それは本当にあったことなのだろうか。俺には分からなかった。第一、その光のかけらが何なのかすら知らないのだから。
 なのに今、俺は『集めた光のかけらをひとつ放った』などと表現した――集めた憶えなどないというのに。俺はまた、何かを忘れているというのか。
 混乱して沈黙する俺に構わず、風子は続ける。
「事故の後、風子の容体は悪くなるばかりでした。そして二年経って、とうとう風子の自発呼吸は止まりました」
「ふぅちゃんっ、どうしてそれを知って……!」
 公子さんが驚きの表情で風子の手を握り締めた。きっと風子が今言ったことは本当なんだろう。しかも、今のやりとりから想像すると、おそらく公子さんは風子にその事実を教えていない。
「風子、おねぇちゃんが風子のために自分を犠牲にして欲しくはなかったです。おねぇちゃんはユウスケさんと結婚して、幸せになって欲しかった。でも風子は、二度と目覚めることなく人生を終えるはずでした――岡崎さんから光をもらわなければ。
 岡崎さんのおかげで、風子はおねぇちゃんとユウスケさんの結婚式に出席することができました。それだけじゃなくて、岡崎さんと汐ちゃんと一緒に楽しい毎日を送ることもできました。だからもう十分です。もらった光を岡崎さんにお返しします」
 風子は苦痛を堪えつつも、静かにそう言い切った。だが、俺の方はそんなに簡単に割り切ることなどできない。
「……もし俺がその光を風子にあげたんだとしても、それを手放すことで元の容体に戻ってしまうなら、それはお前自身の命と同じことじゃないか。どうして、赤の他人だった俺達親子のためにそうまでしてくれるんだ?」
 汐を救ってくれたことには感謝のしようもないが、やはり素直に受け入れることはできなかった。そうした俺の問いに、風子はふっと小さな笑みを口元に浮かべる。
「赤の他人、という訳でもないです。岡崎さんはきっと憶えてないと思いますけど。風子のしようとしていたことは結局実現しませんでしたが、それでもあのときのことは風子にとって大切な想い出です。風子に関ってくれたのは岡崎さんだけでしたから」
 ああ、そういうことか――俺はようやく理解した。
「憶えて……いるさ」
「えっ?」
 俺が紡いだ言葉に、風子は驚いたようだった。
「彫刻を見たときに、全部思い出した。坂の上の高校で俺達は出会ったんだよな。本当ならお前が意識不明のまま入院しているはずの時期に」
「……」
 口を閉じ、少しだけ目を潤ませる風子。代わりに、芳野さんが俺に尋ねてきた。
「それはどういう意味だ、岡崎?」
「どうもなにも、そのままです。信じてもらえないかもしれないけど、俺は高校三年のとき確かにこいつと会ったことがあります。あのときの風子は、姉の結婚をみんなに祝って欲しいと願っていました」
「そんな……」
 公子さんが言葉を失った。
 多分、公子さんが自分のために幸せになれないことに心を痛めた風子は、意識だけで病室を抜け出して、二人に結婚してもらえるよう奔走したのだろう。不思議な話だったが、俺はそれを受け入れた。風子が俺と出会っていたのは確かなことなのだから。
 俺が風子にちょっかいを出したのは、危なっかしくて見ていられないとか、リアクションが面白くてついからかいたくなるとか、そんな軽い気持ちからだったと思う。それなのに風子の方は、刹那の出会いにも関らず俺を慕ってくれたのだ。もしかしたら、人付き合いが苦手だった風子にとって俺が初めての友達と言える存在だったのかもしれない。
 風子は口にしかけた何かを飲み込むと、また笑顔を浮かべた。
「……それなら、風子はもう本当に思い残すことはないです。風子、楽しかった想い出と一緒ですから」
 そして、ベッドの傍らに立つ椋へ視線を向ける。
「柊さん、どうか岡崎さんと汐ちゃんのことをお願いします。岡崎さん達にはずっと一緒にいてあげられる人が必要なんです。柊さんなら、きっと岡崎さんを支えられると風子は思います。だから……」
 この小柄な少女は最初から、自分がいつまでも俺達のそばにいることはできないと悟っていたのだ。あまりにも自己犠牲が過ぎる風子に俺が言い返そうとしたとき、椋がそれを仕草で制した。そして、風子に向かって首を左右に振る。
「伊吹さん、それは駄目です」
「……どうしてですか?」
 否定されるとは思っていなかったのか、風子がきょとんとした表情で椋に問い返した。
「人の心は必ずしも、思惑通りに動かせたりはしません。その人と一緒にいることが悲しい結末に繋がっているのだと分かっていて、それでも愛さずにはいられない。時としてそういうものなんです。
 もちろん、私は岡崎くんのことを嫌いなんかじゃありません。でも、岡崎くんの心は今、伊吹さんの方を向いているんです。そして、伊吹さんも……」
「風子、聞きたくありませんっ」
 風子が顔を背け、ぎゅっと目をつぶる。そこへ椋が言葉を続けた。
「いいえ、聞いてもらいます。伊吹さんに私のことが分かるように、私も伊吹さんのことが分かりますから。
 伊吹さんも岡崎くんのことを愛しているんでしょう? 思い残すことはない、なんて嘘です。あなたは岡崎くんと汐ちゃんの今後を案じているじゃないですか」
「……っ!」
 小さな嗚咽がその喉から漏れ、目尻に涙が光った。
 汐はベッドの端にしがみついて、風子を心配そうに見つめている。俺はその汐を抱き上げて、問いかけた。
「俺は風子が好きだ。これからも、ずっと三人一緒に暮らしていきたいと思ってる。汐、お前はどう思う?」
 汐は躊躇することなく、俺の問いに頷いた。
「ふーこさんのこと、だいすきだから……いっしょがいい」
「汐ちゃん……」
 風子が汐に向かって手を伸ばす。その頬には涙が伝っていた。ベッドの上へ座らせてやると、汐は風子の手をぎゅっと握り締めた。
「ふーこさんといっしょにいたい」
「風子も……ほんとは一緒がいいですっ。汐ちゃんと、岡崎さんと、風子の三人でずっと仲良く暮らしたいですっ」
 風子が涙混じりの声でそう叫んだ。ようやく心の内を明かしてくれたのだ。
「そうしよう。俺達は、今から本当の家族になるんだ」
 繋いだ手の上へ自分の手を重ねて、俺は言った。
「でも……風子の体はもう……」
 分かっていた。こうしている今も、風子は苦痛に苛まれているのだと。
 悔しかった。また俺は、成す術もなく愛する人が失われてしまうのを見ていることしかできないというのか。理不尽な運命を受け入れなければならないというのか――
「……探してきてやる、光のかけらを」
「えっ?」
 驚く風子に、俺は繰り返した。
「お前が汐にくれた光の代わりに、俺が別の光を見つけてやる。待ってろ」
 俺は風子と汐から手を放し、病室のドアへと向かう。その背中にオッサンが声をかけた。
「朋也、当てはあるのか?」
 振り返らず俺は答える。
「そんなもの、ないさ。でも、俺が光を風子にあげたと言うなら、そこから始まったんだとしたら、見つけ出すのは俺の義務だ」
 そして、俺はドアを開いて外へ飛び出した。

 廊下を走り、階段を駆け降りる。途中、擦れ違った看護師から叱責の声が上がるが、返事をする余裕もなかった。受付の脇を抜けて正面玄関へ。自動ドアがゆっくりとじらすように開くのをもどかしく感じつつ待ち、開いた隙間をすり抜けるようにくぐった。
 自分でも分かってはいた。よく知りもしないものを見つけられるはずがないことは。俺はただ、体を動かすことで失う苦痛を誤魔化しているだけなのかもしれない。
 けれど、こんな運命はあんまりだった。風子が一体何をしたというのだろう。そんなにも、この町は俺達を恨んでいるのだろうか。
 曇天の下、辺りは薄暗く淀んで見えた。風はないが、気温はかなり低い。いつ雪が降り出しても不思議じゃなかった。しかし、俺は構わず走り出す――行く当てなどないから、ただ闇雲に。
 最初に辿り着いたのは高級住宅街だった。冬の午後、路上に人影は見えない。仮に誰かがいたとしたら、薄汚れたツナギを着た男が必死に走っていくのを怪訝に思っただろうか。
 そのとき、ふいに俺は一軒の家の前で足を止めた。
「はぁっ……はぁっ……」
 息を切らせながら見上げたそれは、大きな二階建ての家だった。酷く寂れていて、人の住んでいる気配はない。表札も見当たらないから、空き家だろうか。
 どうしてこの家に気を引かれたのか考え、俺は朧げな記憶を思い出した。そう、確かに俺はこの家へ来たことがある。庭に迷い込み、同じ年ごろの少女とその母親とともに過ごしたことがあったのだ。
 あれはいつのことだったろうか。あの少女は今、何をしているんだろうか。そんな思いに駆られたとき、視界の端に何かが映った。
「……!」
 灰色の雲を背景に、光が家の上を舞っているのが見えた。小さいけれども、見間違いじゃない。それはあのとき、風子が汐に与えてくれた光と同じものだ。
 しかし、光は俺の元に降りてくることなく、すうっと冬の大気の中へ溶けていってしまう――まるで、お前のものではないのだと言わんばかりに。
「くそっ」
 俺は小さく毒づくと、また走り始めた。今はとにかく時間が惜しい。俺はそのまま住宅街を後にした。
 次に辿り着いたのは墓地だった。黒や灰色の御影石が整然と並び、そこに彫られた名前を風雨にさらしている。あの日以来、ずっと避け続けていた場所だ。
 その一角、見知らぬ他人の墓の前で、先ほどとよく似た光が空中を踊っていた。住宅街のときとは違い、目線ほどの高さを飛んでいる。俺は近くに駆け寄り、手を伸ばした。
「あっ……」
 だが、指先が光のかけらに触れる寸前、それはかき消すように消滅してしまった。俺はまた拒絶されたのだろうか。
 それでも、俺はまだ諦めることはできなかった。自分を叱咤し、足を動かしてその場を離れる。
 雪が寒空からゆっくりと舞い降り始めていた。体の芯まで染み込んでくるような冷気の中、俺は町中を駆け回る。駅前の商店街、古河パン前の公園、アパート、そして以前住んでいた家――その内いくつかの場所で、俺は光を見かけた。空から舞い降りる小さな雪片とは明らかに違う、不思議な力を宿したかけらだ。けれども、そのいずれもが俺の手に収まることなく消えてしまった。
 大きな落胆とともに、俺の心の中にはもうひとつの感慨が浮かび上がってきていた。この町にはたくさんの想い出が満ちあふれていることに、俺は改めて驚いていたのだった。
 こうしてあてどもなく彷徨い続けたからこそ気付けたのかもしれない。しかし、それは当然のことだ。俺はこの町で育ったのだから。俺の全ての想い出は、ここで育まれたものなのだから。
 そして俺は長い坂を駆け上がっていた。両脇には桜並木が、寒々とした枝を雪雲に覆われた空へと伸ばしている。その枝が蕾を付けるのは、まだ先のことだ。
 最後に辿り着いたのは学校だった。今走っているこの坂の麓で俺は渚と出会い、やがて恋に落ちた。風子を初めて見かけたのも、学校の空き教室でのことだ。俺にとってこの学校は、一際思い出深い場所でもあった。
 坂を登り切ると、懐かしい校舎が見えた。辺りにやはり人影はない。もうかなり暗くなっているし、雪も降っているからだろう。いくつかの教室には明かりがともり、まだ人が残っていることをうかがわせる。
 そんな学校の中、グラウンドの中央に光はあった――しかも、ひとつではなく複数。
 俺は校内へ足を踏み入れ、光が漂う近くまで走り寄った。だが、光のかけら達は俺が近寄ると宙を舞い、からかうかのように俺の周囲を飛び回った。そしてひとつ、またひとつと溶けるように消えていく。
 光が全てなくなってしまうのはすぐのことだった。力が抜け、俺は地面に膝を突いた。
 俺はまた何もできないのだろうか。愛した人が失われてしまうのを、ただ受け入れることしかできないのだろうか。
 絶望して見上げた空は暗く、そこから舞い降りる無数の雪が辺りを染めつつあった――冬の色へと。

 打ちひしがれて、俺は病院へと戻ってきた。結局、光を手にすることはできないままだった。
 姿を見せないまま日は落ち、時刻は夜へと変わっていた。煌々と輝く街灯の明かりが、周囲の闇をよりっそう色濃くしている。肩に積もった雪を払う気力もなく俺が玄関へ向かっていたとき、病院内から手を繋いだ人影が現れた。よく見ると、それはオッサンと早苗さん、そして汐の三人だった。
「朋也さん?」
 早苗さんが少し驚いたように俺へ声をかける。
「はい。何か、あったんですか?」
「いえ、汐が『パパが帰ってきた』と言い出したので、迎えに来てみたんです。汐の言う通りだったから、ちょっとびっくりしました」
「汐が……?」
 オッサンと早苗さんの手を握った汐は、どこか茫洋とした表情だった。
「それで、そっちの方はどうだったんだ?」
 オッサンが俺に問いかけてくる。俺は口に出さず、首だけを左右に振った。
「そうか」
 オッサンは頷くと、小さく溜め息をついた。
「光は、あったんだ――町のあちこちに。でも、どれも俺の手には届かなかった。
 どうすればいいんだろうな。せめて俺の命をあいつにあげることができれば……」
 言いかけた俺を、オッサンの言葉が遮った。
「朋也、それは駄目だ。それじゃあ風子のやったことと同じになっちまう。てめえがそんなことをして、風子が悲しまないとでも本当に思ってるのか?」
「分かってる、分かってるさ! だけど……」
 人と人が命そのものを交換するなどということは本来許されないことだ。だが、理性では理解していても感情は納得できない。
 苦悩する俺の元に、汐が二人の手を放して近づいてきた。そして――
「もし、よろしければ……あなたを、おつれしましょうか。このまちのねがいがかなうばしょに」
 舌足らずな声で、しかしはっきりと汐はそう言った。
「あ……」
 俺は愕然とする。それは知り合って間もない頃、渚が俺に向かって言った言葉そのままだった。けれども、俺はそれを汐に教えてなどいない。汐が知るはずはないのだ。
 それは本当に汐なのだろうか。俺を見上げる視線はまっすぐで揺るぎなく、歳不相応なまでに大人びている。
「ああ……」
 小さな異世界からの使者に俺は頷いた。汐は俺の手を取ると、ある方向に向かって歩き始める。
「お、おい……」
 事情が分からずに――分からないのは俺も同じだったが――戸惑うオッサンを目くばせで制し、俺は汐に従って足を踏み出した。
 そして俺は思い出していた。渚が言っていた、世界にたったひとり残された女の子の物語のことを。俺はあのときオッサンや早苗さんに尋ね、物語の手がかりを掴もうとしたのだった。
 しかし本当は、もう一人追求しなければいけない人間がいたことに、今の今まで気付いていなかった。その人間とは――俺自身のことだ。
 俺と渚だけが、あの物語を知っていたのだ。なのに渚はそれをどこで知ったのか思い出せなかった。俺もまた、記憶をさらってみても物語をいつ見聞きしたのか分からない。
 けれども、もしその記憶が過去ではなく、未来に繋がっていたのだとしたら――。
 汐に導かれて俺達が辿り着いたのは、病院の片隅にある小さな木立だった。渚が命を吹き返したという森の、それが最後に残された残滓だ。うっすらと雪の積もる枯れた下生えを踏みしめ、木々の手前で汐は立ち止まる。
「ここに、何かあるのか?」
 汐に尋ねた直後、俺はふいに全身が熱くなるのを感じた。次の瞬間、俺の体がまばゆく輝き、いくつもの光のかけらがあふれ出した。
「……!?」
 背後から二人分の息を呑む音が聞こえる。俺ももちろん驚いていた。てっきり消えてしまったのだと思っていた光は、いつの間にか俺の体の中へ宿っていたのか。
 飛び出した光達は俺から離れ、前方の木立の間へと舞い飛んでいく。そして空き地の上へ辿り着くと、互いの周りを複雑な軌跡を描きながら回り始める。
 光のひとつひとつがきらめいたとき、その向こう側にどこか別の場所の光景が見えた。
 例えば暗闇の中、スコップで懸命に土を掘る俺がいた。無駄なことかもしれないと思いつつも、誰かのためにその俺は努力しているのだと伝わってくる。
 あるいは、誰かの墓前で少女の肩に手を置く俺が見えた。顔を赤らめたその少女は、高校の後輩だった宮沢だろうか。不満げな表情をした集団に囲まれている俺は何故か傷だらけで、それなのに満足そうな表情を浮かべている。
 知らない顔もあった。性別不祥の整った顔をした人物がベッドの上で身を起こし、涙を浮かべながら俺と握手を交わしている。俺には分かった――『彼』はその俺にとって、かけがえのない友なのだと。
 見知った光景もあった。早苗さんが教え子達に囲まれて嬉しそうに笑っているところだ。それは以前、早苗さんがまた塾をやり直すことに決めたときのものだろう。俺はその笑顔をよく覚えている。
 たくさんの光と、たくさんの光景。それはきっと誰かが望んだ幸せなのだと、俺は悟っていた。この俺自身や異なる選択をした別世界の俺が願いを叶えた結果、それが光として結実したのだ。
 そして、辺りを漂う光の中でも一際明るいものがきらめいたとき、その向こうにかつて夢見た光景があった。
 汐が楽しそうに笑っていた。そのそばに付き添うのは――俺と渚だ。家族三人、仲良く暮らしている光景だった。渚は俺が知る彼女よりも少し大人びた様子で、汐へ優しく微笑んでみせる。その傍らには俺がいて、穏やかに二人を見守っていた。俺が切望しながら、手にすることのできなかった幸せな光景だ。
 渚を失って何もかもを拒否していた頃、幾度となく見た夢にそれは似ていた。その夢を見たくなくて、俺は酒に溺れ、ギャンブルにうつつを抜かしたのだった。
 だが、光の向こうにあるのはそんなまやかしではない。紛れもなく存在する、別世界への窓なのだと俺には分かる。足を踏み出せばそこへ行くことだってできるのだろう。きっと、光の数だけ存在する幸せな光景のどれへでも。それは確かに、『願いのかなう場所』と言えるのかもしれない。
 汐の手が俺の手の中から抜け出そうとする。だが、俺はその小さな手を握ったまま放さなかった。世界で一番大切な、愛しい娘の手を。
「俺は、行かない。ここが俺のいるべき世界だから」
 光から目を離さず、俺は汐にそう言った。
 光の向こうのどこかに、渚が幸せに暮らしている世界があるというのなら、俺はそれで十分だった。あとは、その世界の俺に任せればいい。
(渚を幸せにしてやってくれ)
 俺はそいつに心の中で語りかける。
(ああ。言われるまでもないさ)
 そう答えが返ってきたような気がした。俺とそいつは別の人間で、けれどもやっぱりどこかで繋がっているのだ。
 次の瞬間、光が一斉に弾けた。まばゆい輝きが視界を埋め尽くし、すぐに元の闇へと戻る。閃光が消えたとき、光のかけらはひとつも残ってはいなかった。
 そして――代わりに一人の少女がそこに立っていた。
「な……ぎさ……」
 早苗さんの呆然とした声が聞こえてくる。そこにいたのは俺が初めて愛した人、渚だった。高校時代の姿そのままに、制服を着た少女がこちらを見つめている。他の世界の彼女じゃない。俺が愛し、そして失った渚その人だ。
 俺は渚の元へ駆け寄りたい衝動を必死に堪えた。穏やかな表情をした渚の体は微かに燐光を放ち、カゲロウのように朧げだった。実体ではないのだ。
 分かっていた。渚の命はもう失われてしまったのだから。火葬場で、オッサンと早苗さんが箸を使って渚の遺骨を骨壷に収めるところを、遠くから呆然と眺めていたのを覚えている。死という絶対の断絶は、決して引き返すことのできない領域なのだ。どれだけ望もうとも、渚を幸せにしてやることはもう叶わないと、俺は知っていた。
 そして、渚が口を開く。懐かしい声で俺に問いかける。

『この町は、好きですか?』

 それは初めて会った坂の下で、あるいは昼の中庭で聞いた台詞に似ていた。けれどもその対象が、あのときとは違っている。

『わたしは、とってもとっても好きです』

 そう、渚はいつだってこの町とその住人を愛していた。まだ二人が他人だったときから、恋人同士となり、やがて夫婦として共に暮らした頃まで、ずっと。

『でも、なにもかも……変わらずにはいられないです。
 楽しいこととか、うれしいこととか、ぜんぶ』

 全てが変わってしまう。昔の俺はその意味を本当には理解していなかった。理解せず、無責任にも渚の背を押したのだった。

『ぜんぶ、変わらずにはいられないです』

 今の俺は、見知ったもの全てが変化していき、いつか愛する人さえ失われてしまうことを知っていた。自分自身もまた変わってしまうのだということを。

『それでも、この場所が好きでいられますか?』

 そして、俺は言った。
「変わってしまったんなら、次の楽しいこと、嬉しいことを見つければいい」
 失う絶望、変わりゆく寂しさを経験して、それでも俺は以前と同じ言葉を口にする。それが俺の答えだった。
「お前に出会う前、俺はこの町を嫌っていた。嫌な想い出ばかりだと思っていたから。お前がいなくなっちまったときも、やっぱり同じように感じたよ。どこへ行ってもお前のことを思い出すのが辛かったからだ。
 だけど、そうじゃない。それだけじゃ、ないんだ」
 町中を走り回ったことで、俺は気付くことができた。それは決して無駄なことじゃなかった。もしかしたら、俺は光に導かれていたのかもしれない。
「どれも、かけがえのない想い出だったんだ。痛みも、悲しみも。そしてもちろん楽しいこと、嬉しいこともだ。
 この場所にはたくさんの想い出が詰まってる。俺はこの町が好きだ。だってここは――俺の故郷なんだから。どんなに物事が変化していくんだとしても、それだけはきっと変わらない」
 俺の言葉を聞き、渚は優しく微笑む。それはかつて、俺が守ってやりたいと思った笑顔だった。守ってやりたかった笑顔だった。
「――ごめんな、渚。俺は、お前じゃない人を好きになった」
 俺の告白に、渚は微笑んだまま首を左右に振った。
『幸せになってください、朋也くん』
 渚はいつだって、心から他者のことを想うことができる奴だった。泣き虫で引っ込み思案だったけれど、本当は誰よりも強い心の持ち主だったのかもしれない。
 そして渚は両腕を前に掲げ、手のひらで器を作った。その中に小さな光が宿る。小さいけれども、優しく温かい光だ。
『どうか受け取ってください――わたしの願いを』
 俺が右手を差し出すと、渚が手を開いた。ゆっくりと光のかけらが舞い降り、俺の手のひらへ溶け込む。渚が俺達を想ってくれた、最後の光だ。
 渚は俺に向かって頷くと、しゃがみ込んで汐の顔を覗き込んだ。その表情に少し翳が差す。
『しおちゃん、一緒にいてあげられなくてごめんなさい』
「ママ……」
 汐が小さな手を伸ばすと、渚がそれを包み込むように両手を重ねた。手が触れることは決してなかったけれど、それは母と娘の最初で最後の触れ合いだった。
 渚は視線を両親に向けると、頭を下げた。
『お父さん、お母さん……。しおちゃん達のことをよろしくお願いします。どうか、お元気で』
 早苗さんはボロボロと涙をこぼしていた。声にならないまま、渚に向かって頷く。オッサンはそんな早苗さんの肩を優しく抱き、穏やかに答えた。
「ああ、まかせとけ」
 渚も頷き返すと、名残惜しそうに手を放して立ち上がった。澄んだ眼差しで俺を見つめ、別れの言葉を口にする。
『さようなら、朋也くん』
 もう二度と会うことはできないのだと分かった。こうして再会したことすら束の間の奇跡なのだろう。
 だから、俺も静かに答える。
「さようなら、渚。お前に出会えて、俺は本当に幸せだった」
 渚は少しだけ泣きそうな表情になりながら、それでも大きく頷き、微笑んだ。笑顔のまま、渚の体が薄らいでゆく。大気の中へと溶けてゆく。
 その姿が完全に消え、木立は元の闇へと戻った。そこで特別な何かが起きていたとことを示すものは、何も残ってはいなかった。
 オッサンが目を閉じて息を静かに吐き、そして俺の方を見て言った。
「行け、朋也。あいつの想いを、風子に届けてやれ」
「……ああ。汐、一緒に行こう」
「うん」
 そう答えた汐を抱き上げて、俺はその場を後にする。玄関から受付を抜け、階段へ――。飛び出した道順を逆に辿り、俺達は風子の病室へと着いた。
「岡崎」
「岡崎さんっ」
 芳野さんと公子さんへ頷き返し、俺はベッドへと近寄る。風子は目を閉じたまま、荒い息をしていた。その風子へ俺は手をかざす。
 光がこぼれた。渚の願いが風子の上へと舞い降り、その額に吸い込まれた。風子の息が穏やかなものへと変化し、その目がゆっくりと開かれる。
「岡崎さん……汐ちゃん……」
 風子が俺達を認め、手を差し伸べてきた。俺はその手を掴む。汐も、俺達の上からさらに手を重ねた。
「もう大丈夫だ。お前はまた元気になれる。あいつが……そう願ってくれたから」
 風子がつぶらな目を見開く。そして俺は言葉を重ねた。
「俺はお前が好きだ。だから、俺と結婚して欲しい」
 恥ずかしそうに頬を染め、小さな声で、しかしはっきりと風子は答えた。「はい」と――

 数日後、俺達は公園に来ていた。
 風子の体は回復し、日常生活に支障はなくなっていた。医師がしきりに首を傾げていたのが、少し申し訳ない気もしたけれど。
 休日の午後ということもあり、公園には子供達が大勢遊んでいる。汐もその中に加わり、友達と一緒に笑顔でブランコを漕いでいた。
 俺と風子は並んでベンチへ座り、汐達の様子を遠くから眺めている。二人の手にはたい焼き――近くの屋台で買ってきたものだ。北の街で武者修行をしてきたと言うおやじの焼いたそれは、言うだけのことはあってとても香ばしく、美味い。
「……あー。いいな、こういう風にゆっくりできるのは」
 ベンチの背にもたれかかって、俺はそう呟く。今日は太陽も姿を見せていて、ぽかぽかと暖かい。
「風子もそう思います」
 と、横から同意の声。澄ました顔でそんなことを言っているものの、実のところさっきまで汐と一緒にすべり台を滑っていたのだ、この風子は。小さな子供に混じって遊んでいる姿に、まるで違和感がないのはどうかと思わないでもない。
 たい焼きの残りを口に放り込み、手を叩いてかけらを払い落とす。風子はまだ半分ほど食べ終わったところだった。背びれと、そこからはみ出したバリが大きく残っている。
「そこ、嫌いなら俺が食ってやるぞ」
 そう言ってから、俺は風子の持つたい焼きにかぶりつく。
「あっ!」
 風子が叫んだ。見ると、とても立腹した様子で俺を睨んでいる。それがまた可愛かったりするのだが。
「酷いですっ。風子、せっかく美味しいところを残してたのに!」
「悪い。いや、嫌いなのかと思ってさ」
 俺が謝っても、風子はむくれたままだ。
「風子はパリパリした感触が好きなんですっ」
「俺もそうなんだ。気が合うな」
「『気が合うな』じゃないですっ。風子、気を悪くしましたっ」
 機嫌をすっかり損ねてしまったようだ。そんな仕草も子供っぽかった。
 もっとも、実際のところはわざとやったわけで、俺の方こそ好きな子に意地悪する小学生と大差ないのかもしれない。
「悪かったって。今度たい焼き屋のおやじに、『ヒトデ焼き』ができないか交渉してみてやるからさ。機嫌直してくれ」
「分かりました。それで許してあげますっ」
 即答だった。交渉してどうにかなるのかは怪しいところだが、世の中というのは不思議に満ちているものなのだ。意外とおやじが『ヒトデ焼き』の焼き型を持ってたりするかもしれない。
 俺はまた姿勢を戻し、汐を探した。今度はジャングルジムを登ることにしたようだ。楽しそうな様子の汐を見ると、頬が緩む。
「俺も昔はあんな感じだったのかな。オッサンなんかはきっと、すげぇやんちゃ坊主だったのが目に浮かぶ――ってか、今でも大して変わってないし」
 時代が移り変わっても、そこにある光景は変わらないのだと信じたい。
「……岡崎さんは、『ゆく河の流れは絶えずして』で始まるお話を知ってますか?」
 たい焼きを食べ終えた風子が、そう俺に話しかけてくる。
「んー、聞いたことはあるような気がするな。菅原道真だっけ?」
「鴨長明です」
「うっ……。まあ、どっちでも大差ないだろ」
「風子、大違いだと思いますっ」
 思いっきり突っ込まれまくる。自慢じゃないが、そういった方面は疎い。
「分かった。俺がよく知らんのは認める。でもお前、よくそんなこと覚えてるな。俺なんか、学校で習わされたことはほとんど忘れちまったぞ」
「風子も勉強は得意ではないですけど、そのフレーズが好きだったんで覚えているんです」
「そんなもんか。で、それがどうしたんだ?」
 改めて尋ねると、風子は視線を宙に泳がせた。
「確か、方丈記という随筆の出だしでした。『ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず』――流れる河はいつも同じに見えるけど、その水は前に見たときと同じ水じゃないって意味です。水を人間に例えているのだったと思います」
「ふぅん……」
 風子がなんでそんなことを言い出したのか、俺は理解した。町は遠目には変わらないように見えるかもしれないけれど、そこに住む俺達は子供から大人へと成長し、子を産み育て、年老い、やがて舞台から去っていく。連綿と、流れる河のように続いてきたのだろう。
 いや、町でさえこうして変わっていくのだ。何もかもが時という流れの中に浮かぶ泡のようなものなのかもしれない。
「鴨長明はヘンな人だったと聞きました。世捨て人だったそうです。もしかしたら、岡崎さんみたいな人だったのかもしれないと風子は思います」
「いや、少なくとも今は世捨て人じゃないけどな。大体、俺ごときと比較されちゃ心外だろうし」
 俺は単なる電気工で、歴史に名を刻むような人物じゃない。それでも――
「ところで、俺達はもうじき一緒になるんだ。いつまでも『岡崎さん』ってのは変じゃないか?」
 指摘すると、風子は顔を少し赤らめる。
「そうかもしれないです。じゃあ……朋也さん、でいいですか?」
「――」
「どうして黙ってるんですか? 風子、不安になります」
「いや、ちょっと来るものがあった。お前、可愛過ぎ」
 俺の言葉に、風子が真っ赤になった。
「……っ! おかざ……朋也さんはやっぱりヘンな人ですっ。ヘンな人の頂きですっ!」
「その称号はお前に譲るぞっ」
「譲れませんっ。永世称号なんですっ」
 馬鹿なやりとりで盛り上がる俺達の前に、汐がとことこと歩いてきた。
「おっ、汐。もういいのか?」
「みんなとたくさんあそんだから」
 汐が頷く。
「そっか。じゃあ、そろそろ家へ帰ろう。……っと、さっきそこの店でたい焼き買ったんだ。まだあったかいと思うが、食べるか?」
 俺が尋ねると、汐は嬉しそうに笑った。
「おなかぺこぺこ」
「それはいいですけど、その前に水飲み場で手を洗っちゃいましょう」
 風子がそう指摘する。
「うん」
 実際、こいつは良い母親になれるだろうと俺は思う。俺もうかうかしていられない。汐にとって良き父、そして風子にとって良き夫であるように頑張らねば。
 ――大それたことをする器じゃなくても、俺にしかできないことがある。果てしない河が滞ることなく流れていくのは、きっと多くの人々が努力してきたからなのだ。父さん然り。オッサンや早苗さん然り。俺達に連なる多くの人々が家族を愛してきたからこそ、俺はここにいる。
 俺もまた、愛するこの二人を守って生きてゆこうと思う。大河が流れていき、やがて全てが果てる大海へと辿り着く、そのときまで。それは俺に課された責任であり、あいつが望んだ光景でもあるのだから。
「よし。手は拭き終わったか? じゃあ、あんこたっぷりでバリも特大のスペシャルたい焼きをどうぞ、お姫様」
 たい焼きを差し出すと、汐が満面の笑顔になる。
「このパリパリしたとこ、だいすき」
「気が合います、汐ちゃんっ。風子もそこが好きなんです。風子のは、おか……朋也さんに食べられちゃいましたけど」
「いや、俺も好きなんだ。三人とも気が合うよな」
 すかさずフォローするが、汐には通用しなかった。
「パパ、ふーこさんいじめちゃだめ」
「うっ……。反省します」
 また娘に怒られてしまった。
「じゃあ汐ちゃん、みんなにさよならしましょう」
 風子が屈み込み、汐を促した。
「うん……ばいばい、またあした」
 汐が友達に手を振って別れの挨拶をすると、子供達も「ばいばい」と応えてくる。
 そして、赤みを帯び始めた暖かな日差しを浴びながら、俺達は家へ向かってゆっくりと歩き出した――仲良く手を繋いで。

Fin.

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